【1000文字小説】なくてもいい世界で足掻く
その日の彼の顔は、いつになく疲れ切っていた。高校の同級生だった頃は、いつも明るくて、将棋に夢中な変人という感じだったのに。卒業後、たまたま街で再会して、今は恋人同士。彼は当時から将棋のプロを目指す「奨励会員」という立場だった。 彼は今二十五歳。奨励会の規定で、二十六歳までに四段になれなければ、問答無用で退会、という厳しい世界だ。「後が無い」という彼の焦りは、会うたびに私の心を締め付ける。 「今日も、ダメだった」 彼はポツリと呟いた。私の隣を歩く彼の背中が、いつもより小さく見えた。私はただ黙って、彼の手を握りしめた。 もし彼がプロになれたとして、本当に活躍できるのか。彼自身が一番分かっている事だろう。将棋界は、中学生でプロになり、十代でタイトルを獲るような天才たちがひしめく世界だ。二十六歳でプロになったとして、その後の道のりが平坦でない事は、素人の私にさえ想像がつく。「遅咲きの苦労人」として、華々しいスポットライトを浴びる事はないのかもしれない。 そもそも、将棋なんてこの世に必須のものではない。ただの盤上遊戯だ。食料や医療のように、人々の生活を支えるものではない。そんな、なくてもいいものに、彼は人生の全てを賭けて情熱を注いでいる。その事が、私には時々、信じられないくらい不思議に思える。 そんな彼の不安を、私は理解できていないのだろう。普通のOLとして、日々の仕事に追われながらも、それなりに安定した生活を送っている。彼の世界とはあまりにも違いすぎるのだ。だがそれが悪い事だとも思わない。 「プロになれなかったら、どうするの?」 意地悪な質問だとは分かっていたけれど、ここ数年は時折聞く質問。 彼は少し黙ってから、空を見上げた。「…分からない。でも、後悔はしたくない」同じ答が返ってきた。 プロになれるのは年に四人だけで、ほとんどの奨励会員は夢破れて退会していく。厳しい世界だが、プロが増えすぎても、対局の機会や活躍の場が減ってしまう、つまり食えない者が出るなど、困る事も多いのだろう。彼も就職して働いて、それでお金を稼ぐのか。普通の人生に戻る。安定はしているが、それが幸せかどうかはわからない。 彼は、プロになった後の「活躍」よりも、今この瞬間の「挑戦」を選んでいる。結果がどうであれ、天才たちと同じ土俵で足掻き続けた日々は、無駄になってほしくはない。その夜空の下、彼の手を...