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【1000文字小説】初めてのバイト

 初めてファーストフードの店「マクリア」の厨房に立つ日。昨日の座学で学んだことを頭で反芻しながら、制服に袖を通す。店内は明るい蛍光灯に照らされ、赤と黄色の看板が目にまぶしい。カウンターでは、女性スタッフ二人が注文を手際よく捌き、レジのピッという音とドリンクマシンの泡立つ音が絶え間なく響いている。 厨房はステンレスのシンクや作業台が整然と並び、揚げ物の香ばしい匂いが漂う。フライヤーからはパチパチという油のはねる音。換気扇のゴーッという風の音が耳に心地よく、忙しさの中に規則正しいリズムがある。 厨房にはフリーターの男が一人おり、営業用の仕事は彼に任せ、大学生のリーダーとマンツーマンでトレーニングだ。まずハンバーガーを一個作る。リーダーは手際よくバンズをトースターに入れ、パティを置き、野菜とソースを順序通りに挟む。その動きは滑らかで正確で、まるで工業製品の生産ラインを眺めているかのようだ。僕はその一挙手一投足を目で追い、ひとつひとつ手順を頭に刻む。 「じゃあ次は君の番だ」とリーダー。手が少し震えるのは緊張のせいか、それとも油や熱気のせいか。バンズを置き、パティを焼き、野菜とソースを挟む。焦ると順番を間違えそうになり、リーダーがすぐ横で手を添えて教えてくれる。「落ち着いて、順番を守れば大丈夫」 昼を過ぎると休憩は一人で取る。小さな休憩室から通りを眺めると、子ども連れや学生たちが行き交う。香ばしい揚げ物の匂いと外の空気が混ざり、少しだけほっとする。 休憩後、ハンバーガー作りの最中、バンズを落としてしまった。リーダーは「バンズワン廃棄します」と声に出してから捨てた。「三秒ルールってないんですか」と尋ねるとリーダーは笑っただけで答えなかった。 勤務を終え、家に帰ると妻が言った。「どうだった?」と笑う彼女に、少しだけ肩の力が抜ける。還暦を迎えたばかりの自分が、まさかファーストフード店でバイトをすることになるとは、半年前の自分に言ったらきっと笑われただろう。高校の頃妻は「マクリア」で働いていた大先輩だ。 <1000文字小説目次> リンク

【1000文字小説】動かない観覧車

 SNSで“パワースポットの遊園地”として話題になっていた写真を、咲月が最初に見たのは残業帰りの電車の中だった。 パワースポットといえば神社や山の名所を思い浮かべる。 それなのに、廃墟の遊園地がパワースポット? その矛盾めいた響きに、咲月は軽い興味と半信半疑の気持ちを覚えた。 最近、仕事では判断ミスが続き、上司からの小さな指摘さえ胸に重くのしかかる。 以前の自分なら、こんなことは気にせず前に進めたはずなのに、今は何をしても空回りしているように感じていた。 どこかへ逃げ出したい気持ちもあったのだろう。 咲月は休みを取り、平日の昼下がりに“パワースポット”と噂された廃墟の遊園地を訪れた。 入口をくぐると、胸がざわついた。 SNSで見た写真では日中でも人影があったが、今日は誰もいない。 伸び放題の雑草がアスファルトを覆い、案内板のペンキは剥がれ落ち、ひび割れたガラスが鈍く光る。 風で揺れるブランコの軋みだけが広い空に響き、微かに香る土と鉄の匂いが胸をくすぐった。 昼間の光の下で、人の気配がない静けさが、かえって不思議な力を秘めているように感じられた。 「本当に、ここがパワースポットなのかな…」 小さく呟く。期待と不安が入り混じり、胸の奥がざわついた。 それでも奥へ進む。 砂利を踏む音、遠くで揺れる看板、風が抜ける音。 廃墟特有の孤独がまとわりつき、SNSの写真では決して分からない“生きている廃墟”の気配がじわりと心に迫ってくる。 やがて、遊園地の象徴だった観覧車の前に立った。 かつて鮮やかだった観覧車のゴンドラは色褪せ、鉄骨には深い錆が浮き、塗装は帯のように剥がれて垂れ下がっている。 園内全体が時間に置き去りにされたようで、風景だけが静かに呼吸しているようだった。 観覧車は、寂れた園の中でひときわ目を引き、象徴的な存在として、静かに佇んでいた。 咲月は止まったままの観覧車のゴンドラにそっと腰を下ろした。 薄暗く、埃っぽく、かすかに油の匂いが残る狭い空間。 窓の向こうには、錆びたアトラクションと枯れた植え込みが広がる。 視線を巡らせると、昼の光の中でも、園内の空気がほんのわずかに震えているような気がした。 ゴンドラの中で、咲月は小さく息を吐いた。 何かを得た感覚はない。 観覧車のゴンドラを降りると、遠くで写真を撮っているカップルが見えた。 自分とは対照的な彼らの軽や...

【1000文字小説】鏡の中の「大人の女性」

 今夜、誠司は初めて「外」の世界へ足を踏み入れようとしていた。長年ためらってきた一歩だが、心の奥底で膨らみ続ける欲望には抗えなかった。 完璧なメイク、すらりとしたワンピース、そして少しだけヒールのあるパンプス。鏡の中の自分は、目指している大人の女性。深呼吸をして、誠司はドアを開けた。夜のひんやりとした空気が肌を撫でる。 日中はどこにでもいる平凡なサラリーマン。真面目だけが取り柄のような男だが、誰も知らない、彼だけの秘密。 最初は、すれ違う人みんなが自分を見ているような気がして、足がすくんだ。心臓が早鐘を打つ。 「変な目で見られているに違いない」「笑われているかも」 そんな不安が頭を駆け巡る。俯き加減で早足になる。 しかし、一分、二分と歩き続けるうちに、ある事実に気づく。誰も、誠司のことなど気にも留めていないのだ。 人々はスマホを見ながら歩き、恋人たちは肩を寄せ合って話し、急ぎ足のサラリーマンは前だけを見つめている。誠司が女性の格好をしていることなど、この雑踏の中では取るに足らない、ありふれた日常の一部でしかなかった。 誠司が女装に惹かれたのは、大学時代の文化祭がきっかけだった。友人たちと組んだバンドで、当時流行していた女性歌手のモノマネをすることになったのだ。 生まれて初めてファンデーションを塗り、アイラインを引いた。カツラを被り、ミニスカートの衣装に身を包んでステージに上がった時、観客から巻き起こった歓声と笑い声が、何よりも心地よかった。 「自分の中にも、こんな『私』がいたのか」と、心が震えた瞬間だった。 誠司は少しだけ背筋を伸ばし、最寄りの駅へと向かった。 自動改札を抜けてホームに降り立つ。電車が滑り込んできて、ドアが開く。誠司は意を決して乗り込んだ。車内もまた、思い描いていたような好奇の目に晒されることはなかった。皆、自分の世界に没頭している。 電車に揺られながら、誠司は窓の外を流れるネオン街を眺めた。この街には、自分と同じように、人知れず秘密を抱えた人々がたくさんいるのかもしれない。そう思うと、不思議と心が軽くなった。 目的地の駅に到着し、電車を降りる。階段を上り、地上へと出る。煌びやかなネオンの光が誘う先の小さなバーへと歩き始めた。そこは、以前インターネットで見つけた、同じ趣味を持つ人々が集う場所だった。 夜風が頬を撫でた。もう、すくむ足はなかった...

【1000文字小説】宇宙の樹々

 「いらっしゃいませ」 観葉植物をかき分けるようにして店に入ると、五十代と思しき店主がにこやかに迎えてくれた。友人のマリが「世界が変わる体験だった!」と興奮気味に勧めてきたヒーリングサロン「樹々」。先週、カフェで会った時のマリの顔は、まるで恋に落ちた少女のようにきらきらと輝いていた。「葉子、絶対行った方がいい。私、宇宙と繋がったもん」と、普段スピリチュアルとは無縁な彼女の言葉で、私は予約を入れたのだ。 視界を埋め尽くす緑。壁一面にシダ類が這い、天井からはエアプランツやモンステラがシャワーのようにぶら下がっている。床には背の高いゴムの木やヤシの仲間が林立し、ベッドがまるでジャングルの只中にあるかのようだ。 「すごいですね、この数」 「ええ。世界一、観葉植物があるヒーリングサロンを目指してましてね。すでに達成しているかもしれませんが」 店主は柔和な笑みを浮かべて、私をベッドへと案内した。日々の残業で凝り固まった肩と、将来への漠然とした不安を抱えての訪問だが、この緑の多さには圧倒される。 「では、目を閉じて、植物たちの呼吸を感じてみてください」 店主の声が、無数の葉のざわめきと混じり合う。言われた通りに目を閉じた。 ――何も感じない。 マリは「宇宙と繋がった」と言っていたが、風の音、土の匂い。それだけだ。五分、十分と時間が過ぎていく。店主は植物に水をやったり、葉の向きを直したりしている気配がする。ヒーリング、しているのだろうか? 目を閉じたまま、内心で焦りが募る。高額な施術料が頭をよぎる。この時間、無駄になっているのでは? いや、私が鈍感なだけか? もしかして、みんな「感じたフリ」をしてるだけなんじゃないの? 「どうですか? 何か感じますか?」 店主が尋ねてきた。正直に「いえ、特に」と言うと、店主は少し驚いた顔をした。 「そうですか。では、少しパワーを強めますね」 店主は私の頭の上に手をかざし、目を閉じた。私も再び目を閉じた。 ――やっぱり、何も感じない。 むしろ、さっきから店の外を走る車のエンジン音の方が気になる。クラクションの音、誰かの話し声、日常の音がやけに鮮明に聞こえてくる。 ヒーリングを受けているはずなのに、心がどんどん現実に引き戻されていく。 (マリの興奮ぶりは何だったの? マルチ商法に引っかかった人みたいだったけど……いや、私が疲れてるから受け付けな...

【1000文字小説】なくてもいい世界で足掻く

 その日の彼の顔は、いつになく疲れ切っていた。高校の同級生だった頃は、いつも明るくて、将棋に夢中な変人という感じだったのに。卒業後、たまたま街で再会して、今は恋人同士。彼は当時から将棋のプロを目指す「奨励会員」という立場だった。 彼は今二十五歳。奨励会の規定で、二十六歳までに四段になれなければ、問答無用で退会、という厳しい世界だ。「後が無い」という彼の焦りは、会うたびに私の心を締め付ける。 「今日も、ダメだった」 彼はポツリと呟いた。私の隣を歩く彼の背中が、いつもより小さく見えた。私はただ黙って、彼の手を握りしめた。 もし彼がプロになれたとして、本当に活躍できるのか。彼自身が一番分かっている事だろう。将棋界は、中学生でプロになり、十代でタイトルを獲るような天才たちがひしめく世界だ。二十六歳でプロになったとして、その後の道のりが平坦でない事は、素人の私にさえ想像がつく。「遅咲きの苦労人」として、華々しいスポットライトを浴びる事はないのかもしれない。 そもそも、将棋なんてこの世に必須のものではない。ただの盤上遊戯だ。食料や医療のように、人々の生活を支えるものではない。そんな、なくてもいいものに、彼は人生の全てを賭けて情熱を注いでいる。その事が、私には時々、信じられないくらい不思議に思える。 そんな彼の不安を、私は理解できていないのだろう。普通のOLとして、日々の仕事に追われながらも、それなりに安定した生活を送っている。彼の世界とはあまりにも違いすぎるのだ。だがそれが悪い事だとも思わない。 「プロになれなかったら、どうするの?」 意地悪な質問だとは分かっていたけれど、ここ数年は時折聞く質問。 彼は少し黙ってから、空を見上げた。「…分からない。でも、後悔はしたくない」同じ答が返ってきた。 プロになれるのは年に四人だけで、ほとんどの奨励会員は夢破れて退会していく。厳しい世界だが、プロが増えすぎても、対局の機会や活躍の場が減ってしまう、つまり食えない者が出るなど、困る事も多いのだろう。彼も就職して働いて、それでお金を稼ぐのか。普通の人生に戻る。安定はしているが、それが幸せかどうかはわからない。 彼は、プロになった後の「活躍」よりも、今この瞬間の「挑戦」を選んでいる。結果がどうであれ、天才たちと同じ土俵で足掻き続けた日々は、無駄になってほしくはない。その夜空の下、彼の手を...