【1000文字小説】鏡の中の「大人の女性」
今夜、誠司は初めて「外」の世界へ足を踏み入れようとしていた。長年ためらってきた一歩だが、心の奥底で膨らみ続ける欲望には抗えなかった。
完璧なメイク、すらりとしたワンピース、そして少しだけヒールのあるパンプス。鏡の中の自分は、目指している大人の女性。深呼吸をして、誠司はドアを開けた。夜のひんやりとした空気が肌を撫でる。
日中はどこにでもいる平凡なサラリーマン。真面目だけが取り柄のような男だが、誰も知らない、彼だけの秘密。
最初は、すれ違う人みんなが自分を見ているような気がして、足がすくんだ。心臓が早鐘を打つ。
「変な目で見られているに違いない」「笑われているかも」
そんな不安が頭を駆け巡る。俯き加減で早足になる。
しかし、一分、二分と歩き続けるうちに、ある事実に気づく。誰も、誠司のことなど気にも留めていないのだ。
人々はスマホを見ながら歩き、恋人たちは肩を寄せ合って話し、急ぎ足のサラリーマンは前だけを見つめている。誠司が女性の格好をしていることなど、この雑踏の中では取るに足らない、ありふれた日常の一部でしかなかった。
誠司が女装に惹かれたのは、大学時代の文化祭がきっかけだった。友人たちと組んだバンドで、当時流行していた女性歌手のモノマネをすることになったのだ。
生まれて初めてファンデーションを塗り、アイラインを引いた。カツラを被り、ミニスカートの衣装に身を包んでステージに上がった時、観客から巻き起こった歓声と笑い声が、何よりも心地よかった。
「自分の中にも、こんな『私』がいたのか」と、心が震えた瞬間だった。
誠司は少しだけ背筋を伸ばし、最寄りの駅へと向かった。
自動改札を抜けてホームに降り立つ。電車が滑り込んできて、ドアが開く。誠司は意を決して乗り込んだ。車内もまた、思い描いていたような好奇の目に晒されることはなかった。皆、自分の世界に没頭している。
電車に揺られながら、誠司は窓の外を流れるネオン街を眺めた。この街には、自分と同じように、人知れず秘密を抱えた人々がたくさんいるのかもしれない。そう思うと、不思議と心が軽くなった。
目的地の駅に到着し、電車を降りる。階段を上り、地上へと出る。煌びやかなネオンの光が誘う先の小さなバーへと歩き始めた。そこは、以前インターネットで見つけた、同じ趣味を持つ人々が集う場所だった。
夜風が頬を撫でた。もう、すくむ足はなかった。誠司は、自分という存在がこの広い世界の一部であることを実感しながら、確かな足取りで夜の街を歩き始めた。(文字数:1032)