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【1000文字小説】工具箱の隣で

 店の裏口を開けた瞬間、冷えた空気が胸に沈んだ。山下は白髪の混じった短髪を軽く払う。腰は以前よりも曲がり、目尻の皺は深く刻まれている。手の甲の血管は浮き、指先には長年の修理仕事の跡がこびりついていた。静まり返った商店街に吐いた息がやけに白く、独りで迎える朝の重さがずしりと胸に乗る。シャッターを上げる金属音は、今日もまた同じ孤独をなぞるだけの一日の始まりのように響いた。 九時になると、常連の古田が古びたトースターを抱えてやって来る。「また止まったんよ」とぼやきながら、みかんをひと袋置いていった。誕生日祝いだと言う。ほんの小さなやり取りなのに、肩の力が少し抜けた。しかしその温かさに触れるたび、長く忘れていた感覚が逆に胸を締めつける。誰かに気にかけられることが、今の自分には少し重い。 昼過ぎ、若い母親がベビーカーを押して駆け込んできた。ドライヤーを分解して焦げた配線をつなぎ直し、動くようにして返すと、赤ん坊が山下の工具箱を覗き込む。触れそうになる小さな指を制しながら笑った瞬間、胸が痛んだ。昔、結婚を迷った恋人と別れを選んだ夕暮れがよみがえる。もし家庭というものを選んでいたら、こんな光景が自分の毎日にもあったのだろうかと考えた途端、喉の奥に苦いものが込み上げた。 午後の出張修理では、小さな家の洗濯機を相手にしながら、台所の湯気や家族の声が勝手に耳に入り込んでくる。奥の部屋で宿題をする上の子、笑い合う夫婦。その当たり前が、自分には一度も訪れなかった未来のように見えて、余計な想像が頭をかすめる。下の子が山下の手元を真似して、ネジに指を伸ばそうとする。「危ないで」と声をかけると笑顔が返ってくる。その無邪気さが、温かいのに、少し残酷だ。 修理を終えると、奥さんが湯気の立つ茶を差し出した。「山下さんがおると助かるわ」と言われ、なんとも言えない感情が胸に滲む。喜びとも違うし、完全な寂しさとも違う。独りで積み重ねてきた年月の重さが、急に手のひらに乗せられたようだった。 夕暮れ時、店に戻る。奥の自室で伝票を整理しながら蛍光灯を消す。工具箱の蓋を撫で、小さく呟いた。 「明日も、まあ、やるか……」 シャッターを下ろす金属音が、冷たく響く。白髪に夕陽の色が反射し、店舗兼自宅に漂う静寂の中、今日も誰かの生活の片隅に自分がいたことを知る。嬉しさと切なさが入り混じった胸を抱え、山下はそのまま小...

【1000文字小説】火曜日に火曜日が

 初めてその猫を見たのは、まだ春先の少し肌寒い火曜日だった。 学校で少し嫌なことがあった日で、帰り道、みちるは何度も「早く家に帰りたい」と思っていた。火曜日はいつも、クラスの発表の順番が巡ってくる日で、みちるにとってあまり好きな曜日ではなかった。 母の作ってくれたおやつをつまみながら、何気なくベランダの窓に目をやると、青い手すりの上に白い塊がちょこんと座っている。 ――猫だ。ここ、マンションの二十階なのに。 猫はみちるに気づき、ゆっくりと振り向いた。水色の瞳。首には小さな鈴のついた水色の首輪。よく見ると、首輪の革は少し古びていて、色も少し薄れている。どこかの飼い猫には見えるのに、どこか時間の外にいるような、不思議な古さがあった。 驚かせないようにそっと窓に手をかけた瞬間、猫はひらりと手すりから飛び降りた。 みちるは息を飲んだ。 けれど、階下を覗いても、どこにも姿はない。まるで落ちていないかのようだった。 その週の火曜日。 また、猫はベランダにいた。 「先週の猫だ……!」 無事だったことにほっと胸が温かくなる。だが、みちるが近づくと、猫は一声「ニャア」と鳴き、手すりからふわりと消えた。 それは、あの高い場所から落ちるというより、“ふわりと溶ける”ような動きだった。 それからも猫は火曜日の午後三時半にだけ現れた。みちるが学校から帰るのと同じ時間。まるでみちるの帰宅を待っていたみたいに。 季節は十一月。火曜日の風は、指の先を刺すように冷たくなってゆく。 「火曜日、こんにちは」 みちるが話しかけると、猫はゆっくり目を閉じ、また開けた。 いつものその仕草はあまりに静かで、まるで何年も前からそこにいたような安心感がある。 みちるは、ベランダに小さな皿の水を置いた。直接出ると逃げてしまうからだ。猫は一口だけ飲む日もあれば、まったく飲まない日もあった。キャットフードも、匂いだけ嗅いで消えてしまうことがある。 「今日学校でね、隣の席の梨花ちゃんがね……」 猫は何も言わない。 でも、風で首輪の鈴が小さく鳴り、みちるには、それが返事のように聞こえた。 みちるは最近、火曜日が嫌ではなくなっていた。 この猫に会える気がして、朝から少しだけ嬉しい気持ちになるのだ。 クラスで言えないことも、この白い猫には言える。話をきちんと聞いてもらっているような気がする。 首輪の古びた革。その水色は、...

【1000文字小説】小さな缶詰一個の世界

 午前九時、進は買い物に出かけた。 最寄りのスーパーマーケット「コープ・アリア」は、最早、品揃えも最低限でしかなかったため、今日は少しでもマシな配給品を求めて、隣町にある政府直轄の大型配給センターを目指すことにした。そこは家から歩いて一時間以上かかる距離だ。 鉛色の空の下、進は古びたレインコートを羽織り、歩き始めた。 容赦なく降り注ぐ冷たい雨粒が、フードを伝って首筋に滑り込み、思わず身震いする。 道中、錆びついた看板だけがかつての賑わいを伝えていた。 生ゴミと湿った土の不快な臭いが鼻を掠めた。 街路樹は枯れ果て、道の両脇には、栄養失調で痩せ細った人々が力なく座り込んでいる。彼らと目を合わせないように、進は足早に通り過ぎる。誰もが皆、希望のない目をしていた。 時折、捨てられたゴミ袋を漁る人影すら見える。そんな光景を見るたび、自分たちがまだ「配給」にありつけていることに、複雑な安堵と罪悪感を覚えるのだった。 一時間半後、ようやく配給センターの巨大なコンクリートの建物が見えてきた。 既に数百人規模の長い行列ができている。 建物の内部は、人々の吐息と、消毒液のような無機質な匂いが充満していた。 皆、無言で、しかしその眼差しは鋭く、獲物を狙う獣のようだった。 列の進みは遅く、進は冷たい雨に打たれながら、二時間近く待たされた。 その間、些細なトラブルも発生した。列の真ん中あたりで、割り込みをしようとした男と、それに激怒した老人が掴み合いの喧嘩を始めたのだ。 男の荒い息遣いが聞こえる。「俺の家族が飢えてるんだ!少しだけ先に入れろ!」 老人が怒鳴り返す。「ふざけるな!皆同じ条件だ!ルールを守れ!」 周囲の人々は止めに入るどころか、冷淡な視線を向けるだけだった。誰もが自分のことで精一杯なのだ。 警備兵が駆けつけ、男を強制的に連行していく。その光景に、進は喉の奥が詰まるような思いがした。ここにあるのは連帯ではなく、食糧という限られたパイを巡る、むき出しの生存競争だった。 ようやく進の番が来た。店員(もはや感情のない作業員だ)は無愛想に配給カードを受け取ると、今日の割り当てである乾燥豆と、小さな缶詰を一つ、カウンターに置いた。 「以上です」 進は、缶詰をリュックの奥深くにしまい込み、急ぎ足で家路についた。 缶詰は貴重なタンパク源だ。 道すがら、誰かに狙われるのではないかという被害...

【1000文字小説】剪定バサミと小さな温もり

 土曜の午後、七海は庭の植え込みの手入れをしていた。ごつごつとしたグローブをはめた手で、鬱蒼と茂りすぎたツツジの枝を選び、錆びかけた剪定バサミを動かす。ガチン、ガチンと硬い枝を切る鈍い音が、静かな午後の空に響く。 ふと視線を感じて顔を上げると、レンガの小道に一匹の猫が座っていた。 毛並みはつややかで健康そうだ。キジトラ柄の体に、白い靴下を履いたような足。首輪はしていない。大きな、まん丸の瞳。その顔を見た瞬間、「モモ?」と思わず声が漏れた。十年ほど前に、実家で飼っていた猫と瓜二つだったのだ。同じキジトラ柄、同じ白い靴下、そして何より、大きな、少しきょとんとしたような瞳。亡くなってしまったモモが生き返ったかのようだった。 猫は七海の知り合いであるかのように、迷いなく近づいてくる。七海の足元まで来ると、鼻先を七海の靴にちょんとつけ、くんくんと匂いを嗅いだ。そして、にゃあと控えめに鳴く。亡くなったモモも、こんな風に甘えてきたっけ。 七海はしゃがみ込み、おそるおそる手を伸ばす。猫は七海の手のひらに自分の頭を押しつけてきた。その小さな頭を撫でると、柔らかい毛が指先に絡みつく。 七海は猫を抱き上げようとすると、少しだけ抵抗したがすぐに大人しくなる。猫はベンチに座った七海の膝の上で丸くなり、穏やかな寝息を立て始めた。風が、庭の木々を揺らし、カサカサと葉が鳴る音が聞こえた。遠くで子どもの笑い声が聞こえる。七海は、膝の上の猫をそっと撫でながら、このまま時間が止まればいいのに、とぼんやり思った。 ふと膝の上の温もりが、あの日を呼び覚ました。一人暮らしを始めた七海に、母から電話があった。「モモ、もうあまりご飯を食べないのよ」その知らせに、七海は慌てて実家に戻った。弱って痩せてしまったモモは、もう七海の膝には乗れなかった。それでも、七海が床に座るとふらふらと歩み寄り、七海の足に体をすり寄せてきた。あの時の、力ないけれど、確かな温かさ。その感触を、今、目の前の猫から感じている。 猫がむにゃむにゃと口を動かし、ゆっくりと目を開けた。七海の顔をじっと見つめ、再びにゃあと鳴く。猫はのびをすると、七海の膝から飛び降り、振り返ることなく植え込みの奥へと消えていった。七海は、ぼんやりと空を見上げた。十一月の空はどこまでも高く、澄んでいた。七海の中には、膝の上の小さな温もりと、忘れかけていた懐かしい...