【1000文字小説】火曜日に火曜日が
初めてその猫を見たのは、まだ春先の少し肌寒い火曜日だった。
学校で少し嫌なことがあった日で、帰り道、みちるは何度も「早く家に帰りたい」と思っていた。火曜日はいつも、クラスの発表の順番が巡ってくる日で、みちるにとってあまり好きな曜日ではなかった。
母の作ってくれたおやつをつまみながら、何気なくベランダの窓に目をやると、青い手すりの上に白い塊がちょこんと座っている。
――猫だ。ここ、マンションの二十階なのに。
猫はみちるに気づき、ゆっくりと振り向いた。水色の瞳。首には小さな鈴のついた水色の首輪。よく見ると、首輪の革は少し古びていて、色も少し薄れている。どこかの飼い猫には見えるのに、どこか時間の外にいるような、不思議な古さがあった。
驚かせないようにそっと窓に手をかけた瞬間、猫はひらりと手すりから飛び降りた。
みちるは息を飲んだ。
けれど、階下を覗いても、どこにも姿はない。まるで落ちていないかのようだった。
その週の火曜日。
また、猫はベランダにいた。
「先週の猫だ……!」
無事だったことにほっと胸が温かくなる。だが、みちるが近づくと、猫は一声「ニャア」と鳴き、手すりからふわりと消えた。
それは、あの高い場所から落ちるというより、“ふわりと溶ける”ような動きだった。
それからも猫は火曜日の午後三時半にだけ現れた。みちるが学校から帰るのと同じ時間。まるでみちるの帰宅を待っていたみたいに。
季節は十一月。火曜日の風は、指の先を刺すように冷たくなってゆく。
「火曜日、こんにちは」
みちるが話しかけると、猫はゆっくり目を閉じ、また開けた。
いつものその仕草はあまりに静かで、まるで何年も前からそこにいたような安心感がある。
みちるは、ベランダに小さな皿の水を置いた。直接出ると逃げてしまうからだ。猫は一口だけ飲む日もあれば、まったく飲まない日もあった。キャットフードも、匂いだけ嗅いで消えてしまうことがある。
「今日学校でね、隣の席の梨花ちゃんがね……」
猫は何も言わない。
でも、風で首輪の鈴が小さく鳴り、みちるには、それが返事のように聞こえた。
みちるは最近、火曜日が嫌ではなくなっていた。
この猫に会える気がして、朝から少しだけ嬉しい気持ちになるのだ。
クラスで言えないことも、この白い猫には言える。話をきちんと聞いてもらっているような気がする。
首輪の古びた革。その水色は、空の色にも似ているけれど、もう少し薄い、冬の空気の色だ。
その日、みちるが話し終える前に、猫はいつものように手すりへ歩いていった。
もう飛び降りるのだろうと思った瞬間、猫が初めてみちるのほうを振り返った。
そして――かすかに「ニャ」と鳴いた。
返事。
それとも、別れの挨拶だろうか。
「火曜日、また来週」
そう呟いた声は、白い猫のいた場所にすっと吸い込まれていった。
冬が来る。
みちるは、次の火曜日のことを少しだけ不安に、そして少しだけ楽しみに思いながら、温かいリビングへ戻った。
火曜日に火曜日が来ることが、いつの間にか、とても待ち遠しいことになっていた。