【1000文字小説】小さな缶詰一個の世界

 午前九時、進は買い物に出かけた。

最寄りのスーパーマーケット「コープ・アリア」は、最早、品揃えも最低限でしかなかったため、今日は少しでもマシな配給品を求めて、隣町にある政府直轄の大型配給センターを目指すことにした。そこは家から歩いて一時間以上かかる距離だ。

鉛色の空の下、進は古びたレインコートを羽織り、歩き始めた。

容赦なく降り注ぐ冷たい雨粒が、フードを伝って首筋に滑り込み、思わず身震いする。

道中、錆びついた看板だけがかつての賑わいを伝えていた。

生ゴミと湿った土の不快な臭いが鼻を掠めた。

街路樹は枯れ果て、道の両脇には、栄養失調で痩せ細った人々が力なく座り込んでいる。彼らと目を合わせないように、進は足早に通り過ぎる。誰もが皆、希望のない目をしていた。

時折、捨てられたゴミ袋を漁る人影すら見える。そんな光景を見るたび、自分たちがまだ「配給」にありつけていることに、複雑な安堵と罪悪感を覚えるのだった。

一時間半後、ようやく配給センターの巨大なコンクリートの建物が見えてきた。

既に数百人規模の長い行列ができている。

建物の内部は、人々の吐息と、消毒液のような無機質な匂いが充満していた。

皆、無言で、しかしその眼差しは鋭く、獲物を狙う獣のようだった。

列の進みは遅く、進は冷たい雨に打たれながら、二時間近く待たされた。

その間、些細なトラブルも発生した。列の真ん中あたりで、割り込みをしようとした男と、それに激怒した老人が掴み合いの喧嘩を始めたのだ。

男の荒い息遣いが聞こえる。「俺の家族が飢えてるんだ!少しだけ先に入れろ!」

老人が怒鳴り返す。「ふざけるな!皆同じ条件だ!ルールを守れ!」

周囲の人々は止めに入るどころか、冷淡な視線を向けるだけだった。誰もが自分のことで精一杯なのだ。

警備兵が駆けつけ、男を強制的に連行していく。その光景に、進は喉の奥が詰まるような思いがした。ここにあるのは連帯ではなく、食糧という限られたパイを巡る、むき出しの生存競争だった。

ようやく進の番が来た。店員(もはや感情のない作業員だ)は無愛想に配給カードを受け取ると、今日の割り当てである乾燥豆と、小さな缶詰を一つ、カウンターに置いた。

「以上です」

進は、缶詰をリュックの奥深くにしまい込み、急ぎ足で家路についた。

缶詰は貴重なタンパク源だ。

道すがら、誰かに狙われるのではないかという被害妄想に駆られながら、進は足早に家へと向かった。

リュックの重みは、物理的な食糧の重さだけでなく、この世界の重苦しい現実そのものでもあった。

相変わらず激しい雨が降っていた。

明日の天候も、食糧事情も、良くなる兆しはどこにも見えない。(文字数:1086)

<1000文字小説目次>

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