【1000文字小説】0.03°の決断
船内モジュールの窓に、青白い地球が浮かんでいた。アスレルは手を止め、ナビコン「Orion-X」のHUDを凝視する。軌道線が0.03度ずれている――微小だが、このまま再突入すれば燃え尽きる。
「ルクス、手動軌道補正支援を開始」
「承認。推奨スラスター出力を計算中」
アスレルは操縦ハンドル「AstroGrip」を握る。指先に伝わる振動、スラスターの遅延、冷却フィンの微音。心臓が早鐘のように打つ。『落ち着け…落ち着け…』独り言が漏れる。
彼の頭に、過去の記憶が蘇る。父と見た流星群、子ども時代にめくった宇宙図鑑、星の先にある遠い世界への憧れ。それらは今、手元の微小角度の修正に重なる――人生の夢が、ほんの0.03度のズレで壊れるかもしれない現実と同時にあるのだ。
トグルスイッチ「Thruster Modulator」を微調整。X軸、Y軸、微角度を修正する。
窓越しの地球の海が揺れる。『まだ、間に合う…よな』。遠くて届かぬ光が、今、目の前にある。
ルクスが冷静に告げる。「計算完了。微調整値:X+0.018°、Y−0.022°、Z+0.005°。スラスター出力:0.12ニュートン」
アスレルは「Ion-Boostスラスター」を起動。指示通り微調整すると、軌道線が滑るように目標に吸い寄せられる。手に伝わる反動、振動、微かな熱。胸の奥がひりつく。『これで…うまくいくはずだ』
窓の端で青い海が大きく広がる。地球は揺れず、彼を静かに迎え入れる。
背後のモジュール内は静寂だが、生命維持装置の微かなハミング、空気循環ファンの回転音、警報パネルの薄明かりが存在感を放つ。壁面の温度センサーやモジュール端の制御端末は、常に微小な揺らぎを測定し続けている。宇宙船という密閉空間の中で、全ての音が心に突き刺さる。
「完了」
ルクスの声が告げる。アスレルは背もたれに深く座り、肩の力を抜く。宇宙の孤独は消えない。しかし今だけは、達成感が胸に広がる。微小な角度を修正しただけで、世界の運命が変わる。
彼はふと考えた。もし、もう少し遅れていたら。もし、判断が一瞬でも迷ったら。宇宙船の機体は燃え尽き、彼の人生はそこで終わっていた。手に残る振動と熱が、過去の記憶と未来の不確実性を同時に伝える。
窓の向こう、青い星が静かに回り、無言でその存在を示していた。微小なズレを修正しただけで、未来はまだ修正可能かもしれない――しかしその代償は、彼の心の中の不安と孤独に刻まれるのだ。