【1000文字小説】回転する微差
宇宙ステーション「オーロラ」は、地球軌道上に浮かぶ人工重力実験施設だった。遠心力で1Gを生み出す巨大円筒の内部には、研究者と被験者が閉じ込められ、心理・生理データの長期観測が行われている。
私は実験監督官として、今日もモニターに目を凝らしていた。被験者の一人、ユリが歩行トレッドミルを回すたびに、微細な時空のゆがみを検知したのだ。センサーは1ミリ秒単位で重力ベクトルの変動を記録している。
「また出ましたか…」
補助AI「カロン」が淡々と報告する。
「遠心運動による人工重力の誤差では説明できません。局所的に重力場が不連続になっています」
ユリは笑いながら歩き続ける。床のパネルは均一に回転しているはずなのに、彼女の足取りには微妙な遅れや加速が生じている。センサーの数値と、彼女の感覚が一致しない。
歩くたびに、床がわずかに遅れてついてくる気がする。転びそうになるほどではない。ただ、靴底と重さの間に、薄い膜が一枚挟まっている感じ。
私は笑ってごまかす。実験だから、気のせいだと思われたくない。
でも本当は、分かっている。この感覚は、前にもどこかで味わった。夢の中か、思い出しそこねた記憶の中で。
壁に触れた瞬間、手のひらが軽くなった。重力が消えたわけじゃない。ただ、届くのが遅れた。
視線を感じる。監督官の目だ。測られている安心と、理解されない不安が同時に胸に広がる。
もしこのズレが、私の中にだけ残ったらどうなるのだろう。
円筒は回り続ける。私の体も、それに従う。でも意識だけが、ほんの一歩、外側に踏み出してしまった気がした。
「これ、幻覚じゃないの?」
私の問いに、カロンは静かに答える。
「現象は物理的に計測可能です。神経系の反応と一致しています」
回転軸の中心付近に向かい、私は遠心力勾配を精密計算する。1Gを維持するための角速度は完璧に制御されているはずだ。だが局所的な重力変動は、円筒内の空気密度や微細振動、さらには量子揺らぎによる時空変動が重なった結果かもしれない。
ユリがふと立ち止まり、壁に触れる。手のひらがわずかに浮いたような感覚。目を閉じて、呼吸を整える。空間がねじれる瞬間、私も違和感を覚えた。その瞬間、ユリが私の視線に気づいたかもしれないという思いが、胸の奥に微かにチクリとした。私はその距離を詰めることも、完全には理解することもできないと感じていた。まるで重力が数ミリ秒遅れて伝わるようだ。
「面白いですね…この現象、意識にも影響しているかもしれません」
カロンの声には、研究者の興味と警戒が混じる。
ステーションは静かに回転を続ける。窓の外には地球が青く光り、人工重力の円筒は規則正しい回転を刻む。だが内部では、微細な歪みが意識と物理の境界を揺らしている。
私はモニターの数値と被験者の反応を交互に眺め、深呼吸した。この施設の回転は、ただの重力実験ではない。未知の物理現象と人間意識の接点を、私たちは静かに観測しているのだ。
夜になり、ユリは休息用のカプセルに横たわる。微細重力変動は消えない。ステーション全体が、重力と意識の微妙な共鳴の上で回っていることを、私は知っている。
外宇宙の静寂が、円筒の壁に反響する。
人間の意識も、回転する人工重力も、すべてが未知のリズムの中に置かれているのだ。