【1000文字小説】薄い水
九月に入っても、空気の底に生ぬるい塊が沈んでいた。
午後三時のオフィスは、薄水色のカーペットが敷き詰められている。エアコンの風が首筋を撫でるたび、皮膚の表面だけがちくちくと冷え、奥のほうが熱を溜め込んでいた。
指先をキーボードに乗せたまま、画面の数字を見つめる。数字はただそこに並んでいるだけで、意味を持った列としては胸に落ちてこない。喉の奥がカラカラに乾いていた。デスクの隅に置いたステンレスボトルを傾ける。中身は今朝淹れた麦茶だったが、氷はとうに溶け切り、生ぬるく薄まった液体が舌を滑るだけだった。
「佐伯さん、これ、今日の分」
隣の席の課長が、受領印を押した書類の束を置いた。
「ありがとうございます」
声を出した瞬間、自分の声がずいぶん遠くから聞こえた。課長はすでに画面へ視線を戻しており、私の声が届いたのかどうかすら確かではない。
定時を少し過ぎた頃、ビルを出る。
地下鉄の駅へ続く階段を下りる途中で、風がぬっと頬を撫でた。湿気を多く含んだ、ぬめりのある風だ。改札を抜けてホームに立つと、線路の向こう側の壁に貼られた旅行会社のポスターが目に留まる。青い海と白い砂浜。先月までなら羨ましく思えたかもしれない色彩が、今はただ、眩しすぎて目を背けたくなるようなプラスチックの板に見えた。
部屋に帰り、部屋着に着替える。
電気をつけないまま台所に立ち、冷蔵庫を開けた。白い光が暗い部屋に細長く漏れる。ポケットから取り出したトマトを一つ、水道の水で洗った。掌に包むと、冷たさが少しだけ心地いい。そのまま皮ごと噛みつくと、酸っぱい汁が唇を濡らした。甘みはほとんど感じられなかった。
ベランダに出て、手すりに両腕を乗せる。
向かいのマンションの部屋には、いくつかの明かりが灯っていた。テレビの点滅する光、黄色い温かみのあるランプ、誰もいないように見える部屋。風が吹くたび、遠くの幹線道路を走るトラックの不連続な重低音が響く。
喉がまた乾いた。
コップに水道水を注ぎ、半分ほど飲む。胃のあたりに溜まった冷たい塊が、ゆっくりと体の輪郭を内側からなぞっていく。
九月の夜は長い。明日も同じ時間に起きて、同じ電車に乗るのだろう。
手すりから顔を上げると、雲の切れ間に一つだけ、色の薄い星が光っていた。光っているというよりは、そこに小さな穴が開いているようだった。私は残った水を、ごぐりと飲み干した。