【1000文字小説】向かい側

 九月に入ってから、雨の降らない日はなかった。

朝、目を覚ますと、窓の向こうが白く濡れている。カーテンを開ける前から、それがわかるようになった。雨の音は、眠っているあいだにも部屋の中まで入り込んでくる。

実家を処分したとき、いくつかのものを持ち帰った。食器や古い写真、それから母の湯呑みと父の湯呑み。

食器棚には、二つ並べてある。

私は母のものを使っている。

雨が強くなると、窓を閉める。鍵を確かめる。ベランダの排水口を見る。何度見ても、水が増える速さは変わらない。

テレビをつけると、川の水位を知らせている。

私は音を小さくする。

画面の中の数字が、はっきり見えた。


夕方、買い物から戻る。

玄関で傘をたたんでいると、廊下の向こうで子どもの声がした。母親らしい声が、それを追いかけている。

私は靴を脱いだ。

部屋の中は暗かった。

明かりをつけると、食器棚の湯呑みが目に入った。

母が生きていた頃、雨の日には電話がかかってきた。


「そっちは大丈夫?」


いつも同じだった。

私は大丈夫だと答えた。

母が亡くなってから、雨の日の電話はなくなった。

当然のことなのに、ときどき雨が降ると、電話の鳴る気配だけが残っているように思う。

夜になって、雨脚がさらに強くなった。

窓ガラスに水が叩きつけられている。

私は布団に入った。

眠れなかった。

水の音を聞いていると、自分のいる場所が少しずつ低くなっていくような気がした。

午前二時を過ぎた頃、雨が一度、弱くなった。

私は起き上がった。

暗い部屋で、台所まで歩いた。

食器棚を開ける。

母の湯呑みは、いつもの場所にある。

その隣の父の湯呑みに手を伸ばした。

指先に、わずかな湿り気が残った。

しばらく、そのまま触れていた。

それから、父の湯呑みを取り出した。

水を入れることもなく、テーブルの向かい側に置いた。

雨は、まだ降っていた。


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