どこからか忍び込んでくる冷たい風に頬を撫でられて、多香子は目を覚ました。
生後六ヶ月になる息子の翔太を寝かしつけているうちに、いつの間にか自分も眠ってしまったらしい。
多香子は隣で眠っているはずの翔太に目を向けた。すると、思い切り息をのんで目を凝らした。
いない!
翔太がいないのだ。
慌てて掛け蒲団をめくってみるが、いない。
多香子は半分泣き顔になって3LDKのマンション内を探したが、どこにも翔太の姿は見えなかった。
リビングルームのガラス戸が少しだけ開いており、外からの冷たい風が入ってきた。誰かが開けたのに違いなかった。ベランダに出て左右を見渡したが、翔太の姿はなかった。
もしかしてここから…?
多香子は恐ろしくてベランダから下を見る事はできなかった。三十階建てマンションの最上階であるこの場所から落ちたとしたら、まず助からない…。
多香子は下界を見下ろす代わりにふと空を見上げた。
母として何か引かれるものがあったのかもしれない。
最初、それは親指ほどの大きさに見えた。宙に浮くもの、よく目を凝らして見れば、それこそが捜し求めている息子に違いなかった。
そんな事はありえない、という否定と恐怖の混在した表情を浮かべ、混乱した頭は、翔太という名前だからだろうか、などとばかげた事を考えた。
翔太の方でも多香子の視線を感じたのだろうか。ゆっくりと下りてきた。そしてベランダで見つめる多香子の、宙へ伸ばした両腕の中へとふわりと収まった。
「し、翔太」
多香子は、翔太をもう二度と自分の手から離したりしないと決意したように、ぎゅっと力強く抱きしめた。
「翔太、どうやって空なんかに…?」
返答を期待して発した言葉ではなかったのだが、その疑問に答えるように、翔太が声を発した。
「いまのうちに…」
「え?」
「みて、おきたかったの」
「翔太、今しゃべったの、翔太なの?」
答える代わりに翔太は目を閉じ、ぐったりと疲れたように深い眠りについた。多香子が声を何度かけてもいくら強く体を揺すっても起きなかった。
翔太がしゃべったのだろうか。
疑問ではあったが、人が空を飛ぶ事に比べれば、生後六ヶ月の赤ん坊がしゃべる事の方がまだ信じる事ができた。
そしていま翔太がしゃべった内容を繰り返した。
「今のうちに、見ておきたかった…」
そう翔太は言った。
これは一体どういう事だろう?
言い知れぬ不安にかられた多香子は翔太を思い切り抱きしめたが、やはり翔太は起きなかった。(了)
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