とき子の風邪は二週間も続いていた。くしゃみ、鼻水、鼻づまり、そして咳が止まらない。熱はそれほどないが、それでも三十七度五分からは下がらない。
朝食を無理に食べた後、市販の風邪薬を飲んだ。こんなの全然効きゃしない、と内心つぶやきながら。早く治れとも願うが一向に良くならない。
三週間前に行った温泉旅行が原因だと思う。バスで六時間もかけて行ったのだが、その行程で疲れが溜まったようだ。
温泉には一泊したのだが、景色もあまり良くなく、料理も大した事もなく、温泉の効能もとき子の腰痛にはあまり効き目がなく、折角の温泉がストレスを増大させた。その温泉から帰って来てから風邪をひいたのだった。
今回の風邪は、他人にうつしてないから治らないのかしら。
風邪は人にうつせば治るというが、夫にうつしてもまた自分に戻って来そうで、そうなれば離婚するか死別するまで二人の間を行ったり来たりしてしまう。
今日の午後からは書道教室がある。同じ生徒の田中さんにうつそうか。
あの人はいつもぶっきらぼうで、あたしがいないときにはあたしの悪口を言っているようだから、思う存分にうつしてやるか。
そうだ、それがいい。
とき子は田中さんが風邪をひいている姿を想像して楽しくなった。
午後になるととき子は風邪を押して書道教室に出かけた。先週,先々週と休んだので三週間ぶりだった。自転車を漕ぐ足が重かった。
「あら、山本さん、風邪はもう大丈夫なの」
書道の先生に言われたが、マスクをつけ顔色の悪いとき子を見れば全然良くない事が分かるだろう。気の毒そうでもあり、うつされても困るという迷惑そうでもある口調だった。
「ご心配をおかけしました。お陰さまでかなりよくなりまして…」
そう言いながら、田中さんにうつせば治りますよ。とき子は心の中で一人ごちた。
しばらくすると田中さんが教室に入って来た。とき子と同じように顔にマスクをし、時々ごほんごほんと咳き込んでいた。
田中さんは先生に、「遅れてすみません」としわがれた声を絞り出すように言った。
「あら、田中さんも風邪? 流行ってるのかしらねえ」
先生はとき子の時と同じく、気の毒そうでもあり迷惑そうでもある口調で言った。
とき子は田中さんを睨んだ。
何で風邪をひいてるのよ。うつせないじゃない。
そう思っていると、視線を感じたのか田中さんと目があった。田中さんもとき子を睨んだ。彼女もまさに自分と同じ事を考えているのだととき子は思った。(了)
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