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2013/07/25

【1000文字小説】放課後の自転車



授業は退屈で何度もあくびが出た。自分の顎が外れるんじゃないかと道明は心配になった。終業のベルが鳴ると道明はさっさと教室を出た。校舎内用のサンダルから外靴に履き替えて外に出た。空は晴れ渡っていたが、遠くに雨雲が見える。駐輪場へ行った道明はポケットから鍵を取り出して自転車の鍵を解いた。一刻も早く学校から離れようと思っていた。ぐずぐずしていたら部活が始まる。二か月前までは道明も熱心に打ち込んでいた野球部の練習が。

二か月前、道明は交通事故にあった。自転車で横断歩行を渡っているときに、右折して来たトラックに跳ねられた。命は助かったが、投手だった彼の右腕は肩より上がらなくなった。

道明の自転車は坂を下った。長い下り坂は漕がなくても進んで行った。左手には浄水場が見える。坂を下りきると国道に出る。国道沿いに右に曲がった。下り坂の勢いが消えたので、力強く自転車を漕いだ。中学校がある。道明が通った中学校だ。校庭では後輩達が野球をやっている。道明は自転車を止めてしばらくその様子を眺めていた。楽しそうな表情が憎らしく、そして羨ましかった。

「あれは何をやっているの?」

道明はいつの間にか隣に立っていた少女に声をかけられた。同い年ぐらいの女の子だった。グランドを見つめたままで、道明の方は見向きもしない。

「何をって、野球」

「ヤキュウ? ふうん、ヤキュウねえ」

ヤキュウと言っているのだろうが、道明にはヤアキュウに聞こえる。

「知らないのか?」

「知らないわ。あんな小さな玉を投げて、棒でひっぱたいて、走り回って、一体何が楽しいのかしら」

「テレビでよくやってるだろ」

「テレビ? 何それ」

「テレビはテレビ」

「知らない」

野球はともかくテレビを知らないってどういうことだよ。自分が馬鹿にされていると感じる。校庭での野球を熱心に見続けている少女を残し、道明は再び自転車を漕ぎ始めた。

あの子、野球を知らないのか? 

野球。あんな小さな玉を投げ、棒でひっぱたき、走り回って、本当に、何が楽しいのだろう。自転車を漕いでいると、いつの間にか曇った空から雨が落ち始めた。頬に雨を感じる。自転車のスピードをあげた。下校途中の小学生を追い越す。自転車の中学生とすれ違う。左手にスーパーの買い物袋を下げ右手に小さな子供の手を繋いだ主婦を追い越す。雨は降り続けている。道明はスピードを上げた。濡れた路面を自転車が滑走する。道明はさらにスピードを上げた。(了)


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