【1000文字小説】初日の軌道

 地球低軌道で年を越すのは、これで三度目になる。

私は軌道工学技師の七瀬エレーナ。日本時間一月一日〇時〇分。国際標準時ではまだ前年の十五時だ。観測窓の外では、地球が秒速七・八キロメートルで連続的に姿勢を変えている。


正月らしい要素はほとんどない。無重力対応の流動食に「雑煮風味」という名称が付いているだけだ。だが今日が特別なのは、私が二年間モデルを回し続けてきた実験が、ついに実機検証へ移行するからだった。胸の奥が、緊張と期待でざわつく。手のひらがわずかに湿っているのを感じながら、端末に視線を落とす。


実験名は受動型軌道微調整試験。推進剤を使わず、太陽光が物体に与える微弱な圧力、地球重力の非対称成分、上層大気抵抗といった摂動を組み合わせ、軌道要素を意図的に変化させる。机上では成立する。問題は、現実がその通りに従うかどうかだ。


私は端末に視線を落とし、時刻同期信号を確認する。姿勢制御シーケンス、予定通り。人工衛星「はつひ」が、厚さ数ミクロンの薄膜帆を展開する。展開角、許容誤差内。設計値通りの挙動に、胸の奥がわずかに緩む。肩の力も、息を吐くまで気づかなかったほどだ。


テレメトリ更新。

近地点高度、プラス一・三メートル。


数値としては誤差のような変化だ。だが、事前シミュレーションで予測した範囲の中央にぴたりと収まっている。私は呼吸を止めていたことに気づき、遅れて息を吐いた。緊張で固まっていた体が、わずかに緩む。感情が先に動いたのではない。数値が、私の理解を裏切らなかっただけだ。それでも、胸の奥に小さな温かさが広がる。


地上管制から通信が入る。「モデルと一致。成功だ。おめでとう」

その言葉を聞いて、初めて今日は正月なのだと実感した。祝うべきは、私ではなく、計算と現実が同じ答えを出したという事実だ。それでも、肩をすくめるように、少しだけ誇らしい気持ちが湧いた。


この技術が確立すれば、寿命末期の衛星は数年延命できる。デブリ化のリスクは減り、軌道は少しだけ整理される。世界は劇的には変わらないが、無駄は確実に減る。その程度の前進が、私は好きだ。


観測窓の縁が、ゆっくりと明るくなる。

この時刻、この地点を初日の出と定義しても、技術的な矛盾はないだろう。

新しい一年は、時間的には連続している。

それでもログ上、私たちは確かに、新しい軌道へ遷移していた。


微かに震える手を窓の縁に当て、目を細める。宇宙の静けさと、計算が正しかった安心感、そしてわずかな孤独感が混ざり合う。技術の正確さは私を守ってくれるが、感情は私自身で受け止めるしかない。


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