【1000文字小説】半拍の未来
研究棟の地下四階では、靴音が二度鳴る。
一度目は足が床に触れたとき、二度目は時間が追いついたときだ。微かな振動が、壁や天井を通してわずかに残響する。
早乙女レナは、その遅れを誰よりも正確に数えられる人間だった。
実験領域では、重力勾配が人工的に折り畳まれ、時間の流れに微細な歪みを与えている。時計は正常に動く。ただし出来事の順序だけが、僅かにほどける。レナがドアノブに触れた記憶が、触れる前に生まれることがある。これは理論的には許容範囲内の現象で、観測不可逆性とも関係する。
原子時計は完璧だ。
だが人間は、完璧に同期できない。
レナの心拍は、いつも半拍遅れる。その遅れが、彼女の体を「外界より少し過去」に置いていた。同僚たちは冗談めかして言う。「君は未来に行かないタイプだな」
彼女は否定しなかった。未来は、速度の問題ではない。選択の集合体なのだ。
モニターに映る母は、先週より少し声が低かった。時間差のせいだと理解していても、レナはその変化を一度しか受け取れない。観測は不可逆だからだ。心拍の遅れが、感覚のズレを一層鮮明にする。靴音の残響が微妙に長くなるのを感じながら、彼女はその世界の中で正確に立っている自覚を持った。
最終実験で、時間歪曲は理論限界に達した。
靴音は三度鳴り、世界は一瞬、順序を失った。空気の振動も、体感も、すべてがわずかにずれた。レナは記録を保存し、境界線を越える。
心拍と原子時計が重なり合い、遅れは消えた。
時間は戻らない。
だが、どこに立つかは選べる。
彼女は深呼吸し、身体に残る微細な震えを感じながら、足元と世界の重なりを確認した。
そして、ようやく自分の居場所を決めた。未来を受け入れる、半拍だけ先の自分のために。