【1000文字小説】同期誤差ログ
午後六時。
研究棟の屋上で、佐伯真琴は携帯型原子時計を覗き込んでいた。
外見は普通の電子機器だが、内部ではセシウム原子の振動数が測定されている。誤差は一日に一ナノ秒以下。人類が作り出した「最も正確な時間」だった。
真琴は物理学者だ。専門は相対論的時間測定。
彼女の研究は地味で、派手な応用もない。高速で移動する物体の時間が遅れることは、すでにGPS衛星で実用化されている。彼女の仕事は、その誤差をさらに小さくすることだった。
屋上には、もう一つの原子時計が設置されている。
研究棟地下の実験室にも、同型の時計がある。二つは毎朝同期され、夕方に差分を測定する。
高度差はわずかに四十メートル。
一般相対論によれば、重力の弱い高所では時間は速く進む。その差は、理論上、一日で約四ピコ秒。
「……今日も、ずれてる」
真琴は数値を確認した。
屋上の時計は、地下よりも4.1ピコ秒進んでいる。
理論値より、わずかに大きい。
誤差の原因は分かっていない。
温度、振動、電磁ノイズ。すべて排除したはずだった。それでも、差は毎日同じ方向に現れる。
真琴はメモを取りながら、空を見上げた。
夕焼けがビルの隙間に沈み、雲の縁が赤く染まっている。
――時間は、場所によって違う。
学生の頃、その事実に初めて触れたとき、彼女は軽いめまいを覚えた。
誰もが同じ「今」を生きていると思っていた。それが幻想だと知った瞬間だった。
午後八時。
地下実験室で、真琴は再度データを確認する。誤差は累積している。十日で約四十ピコ秒。無視できない。
「測定ミスではない……」
彼女は壁際の装置に視線を移した。
原子時計のすぐ横に、試験用の超伝導リングが置かれている。磁場を発生させるための装置だ。
真琴は、ふと気づいた。
屋上には、それがない。
磁場。
一般相対論では、重力と同様に、エネルギー密度が時空を歪める。理論上は、強い磁場も時間に影響を与える。
「もし……」
仮説を立てる。
地下の磁場が、局所的に時間を遅らせているのだとしたら。
翌日、真琴は装置を停止させた。
磁場をゼロにし、再び時計を同期させる。
夕方、測定。
差は4.0ピコ秒。
理論値と一致した。
真琴は静かに息を吐いた。
彼女の仮説は正しかった。磁場は、ほんのわずかだが、時間を歪めていた。
成果としては小さい。論文一本になるかどうかも怪しい。
だが彼女は、妙な満足感を覚えていた。
人は、時間を操作できない。
進めることも、戻すこともできない。
だが、どこで、どれだけの速さで流れているかは、測れる。
真琴は原子時計をそっと撫で、明日の測定計画を考え始めた。
世界は同じに見えて、決して同じ時間を共有してはいない。
その事実を、彼女は今日も静かに確認したのだった。