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5月, 2014の投稿を表示しています

【1000文字小説】定年後の苦い夢

 理佐の危惧した通りだ。 定年後、理佐の父は喫茶店を開業した。「定年後は喫茶店をやりたいなあ」と口癖のように言い、喫茶店関連の本を買ってきては、せっせと読んでいた。仕事に追われ、自分の時間を犠牲にしてきた父にとって、喫茶店は人生で初めて「自分の為だけ」を持つことが許せる場所なのだ。他人の期待に応え続けてきた人生の終わりに、一杯のコーヒーを通じて人とのつながりを再び築きたかったのだろう。 理佐は「喫茶店なんて、開業したい店第一位だけど廃業率もナンバーワンよ」「コーヒーはコンビニのも普通に美味しいし」理佐がそう言っても、父は耳を貸さなかった。みんな自分だけは大丈夫という根拠のない自信を持ってる。それは世の中の真実だが、父にも当てはまるのは悲しい。 オープン当初は父の知り合いや会社の人たちが連日やってきた。父も生き生きとして、カウンターの中で常連客たちと談笑していた。本当に最初だけだった。近所の人通りが少ない場所であり、新規の客はほとんど来なかった。 「今日も、お客さん少ないね」 理佐の言葉に、父は新聞から目を上げた。 「そうだなあ。まあ、こんなもんだよ」 父が喫茶店の経営で苦しんでいる姿を見るのは辛い。父はこれまで堅実に生きてきた。大きな失敗をすることもなく、家族を支えてきた。そんな父が、定年後の夢に賭けて失敗する姿を見たくなかった。 理佐は、父が淹れてくれたコーヒーを一口飲む。苦味が舌の上に広がる。父が、このコーヒーにどれだけの想いを込めたのか、理佐には痛いほど伝わる。しかし、想いだけでは、店は続かない。飲食店は一年後には半分になる。理佐はカバンから企画書を取り出し、父の前に広げた。 「お父さん、これ改善計画。まず、集客を増やすために、ミニミニコンサートを開催するの。地元の音楽大学の学生に声をかけて、定期的に演奏してもらえば、音楽ファンや学生客も増えるはず。ポイントカードを導入して、リピーターを囲い込む。ランチは、近隣のオフィスにケータリングサービスを始める。それに、ネットで見つけたスイーツのレシピ、SNSで拡散して……」 理佐の提案は、止まらなかった。父は、驚きと戸惑いの表情で企画書を見つめている。それは、娘からの助けであると同時に、もう一度、夢に向き合うための、最後のチャンスだと感じた。「ミニミニコンサートか…学生さん、来てくれるかな」そんな父のつぶやきに...

【1000文字小説】上戸彩、寿司に堕ちる

 ゼノは映像を冷ややかに見つめていた。地球人らは、動植物の死骸をせっせと口に運び、満面の笑みを浮かべたり、目を閉じたりしている。ゼノ達にとって、食事とは純粋な栄養補給に過ぎず、カプセル一つで一日に必要なエネルギーを摂取できるのだ。 ゼノは一人の女性に擬態する。透明感に満ちた肌、柔らかそうな髪、少し微笑んだだけで周囲を明るくするような女性。その姿での調査はここだ。入り口には様々な地球人が並んでいる。中では皿に乗った食べ物がベルトコンベアに乗ってぐるぐると回っている。店員は活気に満ちた声で客を席へと案内し、家族連れは楽しそうに皿を選んでいる。 「上戸彩だ!」「え、マジ?撮影?」 ゼノは、周囲のざわめきに気づいていた。それらもまた情報収集の一環だ。流れる皿から手始めに赤い身の乗った皿を取る。赤い身をスキャンすると、ゼノの網膜に解析情報が流れ込んできた。ゼノは眉をひそめた。原始的な捕食行動。衛生的な観点から言っても、極めてリスクが高い。だが、調査の為だ。赤い身を口に運ぶ。すると、脳に直接働きかけるような強烈な刺激が走った。口の中に広がる、初めて知る感覚。シャリと呼ばれる米粒の甘みと、新鮮な魚介の香りが、渾然一体となって襲いかかってくる。擬態された顔が、意図せず、大きく目を見開く。口元は制御を失い、ほんの少し開いたままになる。そして、ゆっくりと、しかし確実に、目尻が下がっていく。頬は上気し、全身の細胞が歓喜しているような、わけのわからない感覚に襲われた。 「な、なんだ、これは!」 周囲の客は、そのオーバーな反応を、バラエティ番組の撮影だと勘違いした。 「さすが、リアクションが違うわ」「めっちゃ美味しそう!」 ゼノは、次の皿、また次の皿と、無我夢中で手を伸ばした。白身、サーモン、エビ…。どれもこれも、カプセルでは決して味わえない、未知の感動に満ちていた。 上戸彩の前には皿が八十枚積み重なっていた。「かなり大食い…」と引いている周囲。ゼノはまるで夢から覚めたかのように呆然となっていた。先ほどまで原始的だと評価していた地球人と同じように、食事という「無駄な行為」に熱中し、陶酔したのだ。この感情は果たして欠陥なのか?仲間には何と報告すれば? ラーメン、焼肉、ハンバーガー、たこ焼き…。謎の食べ物の数々が、ゼノの脳裏をよぎる。食事という行為の本質を探るのだ。後続部隊が到着する百年...

【1000文字小説】劇的な人生

 朝の陽光が白いレースのカーテンを透過して、淡い光の帯をリビングの床に落としている。空はすっきりと晴れ渡り、若葉の匂いを運ぶ風が、網戸の隙間からわずかに室内に流れ込んでくる。彼女の顔は、頬骨のあたりにうっすらとそばかすが散っている。茶色い髪は肩にかかるほどの長さで、櫛を通したばかりの髪の毛は艶を帯び、光を反射している。 ダイニングテーブルの上には、夫が飲み残したコーヒーカップがひとつ。それを片付け、洗い物をする。夫とは友人の紹介で知り合った。お互いに特に印象に残ることもなく、ただ連絡先を交換しただけだった。なんとなく二人で会うようになり、なんとなく付き合いが始まり、そのまま結婚して今に至る。 今日はパートが休みの日。週に三回、スーパーのレジ打ちをしている。接客は嫌いではなかった。客と最低限の言葉を交わし、品物を袋に詰めて渡す。それだけの、単純な作業。 子供の頃は、劇的な人生を夢見ていた。小学校の卒業文集の将来の夢の欄に、アイドルと書いた。本気でなれるとは思っていなかったが、テレビの中で見たアイドルたちに憧れた。スポットライトを浴びる人生が、自分の身にもいつか訪れるのだ。 掃除機をかける。小さな埃を吸い取っていく音。生活の音が、静かな空間に響く。リビング、寝室、廊下。掃除を終えると、台所に立つ。冷蔵庫を開け、中を覗く。野菜室にはキャベツと人参、冷蔵室には豆腐と豚肉。今夜は生姜焼きにしようか。献立を考える。夫は、文句も言わなければ、特別に喜ぶこともない。 ベランダに出る。洗剤の香りが、風に乗ってふわりと鼻をかすめる。向かいのマンションのベランダには、子供服が色とりどりに干されている。それを横目に見ながら、洗濯物を干した。夫のシャツ、自分のブラウス。二枚ずつ。それだけ。子供の服はない。 時計を見ると、十時半を少し過ぎたところだった。ゆっくりとコーヒーでも淹れて、本でも読もうか。ソファに座り、サイドテーブルに置いた文庫本に手を伸ばす。栞を挟んだページを開く。登場人物が、恋人と別れ、新しい生活を始める場面。その情景を追う。自分の人生とは全く違う、非日常的な物語。 子供の頃に夢見た劇的な人生は、訪れることはなかった。だが、その代わりに、静かで穏やかな日常がそこにはあった。これからも、多分、劇的なことは起こらない。五月の、ごくありふれた午前。ただ、どこかに、劇的な人生を望...

【1000文字小説】ひな、バットを振る

 ひなは教室では誰とも話さず、部活にも入らなかった。まっすぐな黒髪は手入れはされているが飾り気もなく、顔立ちは整ってるが無表情さが印象を薄くしている。高校一年生の彼女は放課後、バッティングセンターに立ち寄る。学校からほど近いその場所は、楽しそうに話しながら打っているカップルや大声で盛り上がる野球部員たちで賑わっていた。 受付でコインを購入し、一番遅い球がくる打席に立つ。ヘルメットをかぶり、硬くて重いバットを両手で握りしめた。だが、ひなが想像していたよりもボールは速く、乾いた空振りの音だけがネットの中に響き渡る。バットを振る。ボールはただ目の前を通り過ぎていくだけ。観ているだけでは分からなかった、この、どうしようもないズレ。 それからの放課後は、バッティングセンターで過ごした。はじめはただ無心にバットを振っていたが、やがて頭の中でスイングの解析をするようになる。最初は手打ちになっていたせいで、ボールが力なく飛んでいた。一ヶ月もたつと、コツが掴めてきた。軸足にためをつくり、腰を回転させて、その力をバットに伝える。そんな一連の動作を、何度も何度も繰り返す。頭の中で、スイングの理屈を組み立てていく。日常の動きとはまったく違う、身体の新しい使い方。 ひなはさらに上のレベルを目指し、練習方法を工夫する。速い球だけでなく、わざと遅い球を選んで打席に立つ。スピードの緩急に対応するには、ギリギリまでボールを引きつけ、重心を後ろに残したまま、バットの軌道を調整する。アウトコースのボールは逆らわずにライト方向へ打ち返し、内角の厳しい球に対しては手首を返さずにヘッドを立たせるように意識する。バットの芯にボールが当たると甲高い金属音が響き、ボールは真っ直ぐに飛んでいく。ホームランに近い当たりに、呼吸が少し荒くなった。 その日も飛んできたボールに集中していた。どうもこれまでは力み過ぎていたようだ。ひなは脱力し、バットを振りインパクトの瞬間だけ力を込めて振り抜いた。今まで聞いたことがないほど澄んだ音が響き渡り、ボールは力強く空を舞った。白い球は弧を描きながらホームランラインを越えた。「なるほど、こうすれば届くのか」手のひらに残るバットの振動がじんわりと広がる。一人で繰り返してきた日々が、この一瞬に凝縮されたように感じた。ふと、口元が緩むのを感じた。それは、誰にも見られていない、自分だけの...

【1000文字小説】ハッピーバースデー

 朝を迎えた。目覚まし時計の音で目が覚め、いつものように支度をする。トースターから立ち上るパンの香ばしい匂いと、マグカップから立ち上るコーヒーの湯気。テレビの画面の中で淡々と流れる天気予報の音だけが、静かな部屋に響いている。鏡に映る香織の顔にはいつの間にかシワや白髪が増えている。でもその瞳の奥には、たくさんの誕生日を重ねてきた証が宿っているように思えた。 ふと机の上の花瓶に目をやる。自分で活けたカーネーションが、鮮やかに咲いている。ささやかな、でも香織らしい自分への誕生日プレゼントだ。スマホを手に取ってカーネーションを撮影してみる。今日は何かの始まりだと、香織は感じた。 子供の頃の騒がしかった誕生日を思い出す。リビングに風船を飾り、食卓には母の手作りのご馳走が並んだ。父が帰宅するのを待ち、家族でハッピーバースデーを歌った。プレゼントを開ける時の胸の高鳴り、そして包装紙を破って出てきたのは、欲しくてたまらなかった光るペンダント。帰省するたびに小さく静かになっていく実家を思い浮かべ、香織は「また近いうちに顔を出すね」と、予定のない言葉を繰り返した。 騒がしいといえば高校生の頃もだ。放課後皆で集まり、ピザやジュースでささやかなパーティーを開いた。好きな男の子の話で盛り上がり、香織が「この間、部活帰りに偶然会って、目が合っちゃったんだよね」と話すと、みんなが「えー!それ、脈ありじゃない?」と囃したてた。あの時の友人たちは皆、結婚し、子供を持ち、それぞれの人生を歩んでいる。SNSで流れてくる幸せそうな写真を見るたび、自分だけが取り残されたような感覚が募る。 社会人一年目の誕生日も印象に残る。会社の上司や同僚に祝ってもらった。入社したばかりで右も左も分からなかった香織に、先輩達が「おめでとう」と声をかけてくれた。帰り道、行きつけのバーで一人、小さなグラスを傾けた。期待と不安が入り混じった、少しだけ大人になった自分の影が、グラスの向こうで揺れていた。転職し、当時の同僚たちとは年賀状のやり取りが何人かとあるだけだ。 四十九歳最後の日と五十歳最初の日は、何も変わらない。それでも、何かは変わったのだ。誰もいない部屋に、自分の為だけに用意したカーネーション。撮った写真は誰かに送るわけでもなく、自分のスマホに保存し画面をそっと閉じる。そして、新しい一日を始める為部屋のドアを開け、外...