【1000文字小説】劇的な人生

 朝の陽光が白いレースのカーテンを透過して、淡い光の帯をリビングの床に落としている。空はすっきりと晴れ渡り、若葉の匂いを運ぶ風が、網戸の隙間からわずかに室内に流れ込んでくる。彼女の顔は、頬骨のあたりにうっすらとそばかすが散っている。茶色い髪は肩にかかるほどの長さで、櫛を通したばかりの髪の毛は艶を帯び、光を反射している。


ダイニングテーブルの上には、夫が飲み残したコーヒーカップがひとつ。それを片付け、洗い物をする。夫とは友人の紹介で知り合った。お互いに特に印象に残ることもなく、ただ連絡先を交換しただけだった。なんとなく二人で会うようになり、なんとなく付き合いが始まり、そのまま結婚して今に至る。


今日はパートが休みの日。週に三回、スーパーのレジ打ちをしている。接客は嫌いではなかった。客と最低限の言葉を交わし、品物を袋に詰めて渡す。それだけの、単純な作業。


子供の頃は、劇的な人生を夢見ていた。小学校の卒業文集の将来の夢の欄に、アイドルと書いた。本気でなれるとは思っていなかったが、テレビの中で見たアイドルたちに憧れた。スポットライトを浴びる人生が、自分の身にもいつか訪れるのだ。


掃除機をかける。小さな埃を吸い取っていく音。生活の音が、静かな空間に響く。リビング、寝室、廊下。掃除を終えると、台所に立つ。冷蔵庫を開け、中を覗く。野菜室にはキャベツと人参、冷蔵室には豆腐と豚肉。今夜は生姜焼きにしようか。献立を考える。夫は、文句も言わなければ、特別に喜ぶこともない。


ベランダに出る。洗剤の香りが、風に乗ってふわりと鼻をかすめる。向かいのマンションのベランダには、子供服が色とりどりに干されている。それを横目に見ながら、洗濯物を干した。夫のシャツ、自分のブラウス。二枚ずつ。それだけ。子供の服はない。


時計を見ると、十時半を少し過ぎたところだった。ゆっくりとコーヒーでも淹れて、本でも読もうか。ソファに座り、サイドテーブルに置いた文庫本に手を伸ばす。栞を挟んだページを開く。登場人物が、恋人と別れ、新しい生活を始める場面。その情景を追う。自分の人生とは全く違う、非日常的な物語。


子供の頃に夢見た劇的な人生は、訪れることはなかった。だが、その代わりに、静かで穏やかな日常がそこにはあった。これからも、多分、劇的なことは起こらない。五月の、ごくありふれた午前。ただ、どこかに、劇的な人生を望んでいる自分がまだいた。(文字数:1000)


<1000文字小説目次>


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