【1000文字小説】定年後の苦い夢
理佐の危惧した通りだ。
定年後、理佐の父は喫茶店を開業した。「定年後は喫茶店をやりたいなあ」と口癖のように言い、喫茶店関連の本を買ってきては、せっせと読んでいた。仕事に追われ、自分の時間を犠牲にしてきた父にとって、喫茶店は人生で初めて「自分の為だけ」を持つことが許せる場所なのだ。他人の期待に応え続けてきた人生の終わりに、一杯のコーヒーを通じて人とのつながりを再び築きたかったのだろう。
理佐は「喫茶店なんて、開業したい店第一位だけど廃業率もナンバーワンよ」「コーヒーはコンビニのも普通に美味しいし」理佐がそう言っても、父は耳を貸さなかった。みんな自分だけは大丈夫という根拠のない自信を持ってる。それは世の中の真実だが、父にも当てはまるのは悲しい。
オープン当初は父の知り合いや会社の人たちが連日やってきた。父も生き生きとして、カウンターの中で常連客たちと談笑していた。本当に最初だけだった。近所の人通りが少ない場所であり、新規の客はほとんど来なかった。
「今日も、お客さん少ないね」
理佐の言葉に、父は新聞から目を上げた。
「そうだなあ。まあ、こんなもんだよ」
父が喫茶店の経営で苦しんでいる姿を見るのは辛い。父はこれまで堅実に生きてきた。大きな失敗をすることもなく、家族を支えてきた。そんな父が、定年後の夢に賭けて失敗する姿を見たくなかった。
理佐は、父が淹れてくれたコーヒーを一口飲む。苦味が舌の上に広がる。父が、このコーヒーにどれだけの想いを込めたのか、理佐には痛いほど伝わる。しかし、想いだけでは、店は続かない。飲食店は一年後には半分になる。理佐はカバンから企画書を取り出し、父の前に広げた。
「お父さん、これ改善計画。まず、集客を増やすために、ミニミニコンサートを開催するの。地元の音楽大学の学生に声をかけて、定期的に演奏してもらえば、音楽ファンや学生客も増えるはず。ポイントカードを導入して、リピーターを囲い込む。ランチは、近隣のオフィスにケータリングサービスを始める。それに、ネットで見つけたスイーツのレシピ、SNSで拡散して……」
理佐の提案は、止まらなかった。父は、驚きと戸惑いの表情で企画書を見つめている。それは、娘からの助けであると同時に、もう一度、夢に向き合うための、最後のチャンスだと感じた。「ミニミニコンサートか…学生さん、来てくれるかな」そんな父のつぶやきに、理佐はかすかな希望を感じた。(文字数:1000)