【1000文字小説】ハッピーバースデー
朝を迎えた。目覚まし時計の音で目が覚め、いつものように支度をする。トースターから立ち上るパンの香ばしい匂いと、マグカップから立ち上るコーヒーの湯気。テレビの画面の中で淡々と流れる天気予報の音だけが、静かな部屋に響いている。鏡に映る香織の顔にはいつの間にかシワや白髪が増えている。でもその瞳の奥には、たくさんの誕生日を重ねてきた証が宿っているように思えた。
ふと机の上の花瓶に目をやる。自分で活けたカーネーションが、鮮やかに咲いている。ささやかな、でも香織らしい自分への誕生日プレゼントだ。スマホを手に取ってカーネーションを撮影してみる。今日は何かの始まりだと、香織は感じた。
子供の頃の騒がしかった誕生日を思い出す。リビングに風船を飾り、食卓には母の手作りのご馳走が並んだ。父が帰宅するのを待ち、家族でハッピーバースデーを歌った。プレゼントを開ける時の胸の高鳴り、そして包装紙を破って出てきたのは、欲しくてたまらなかった光るペンダント。帰省するたびに小さく静かになっていく実家を思い浮かべ、香織は「また近いうちに顔を出すね」と、予定のない言葉を繰り返した。
騒がしいといえば高校生の頃もだ。放課後皆で集まり、ピザやジュースでささやかなパーティーを開いた。好きな男の子の話で盛り上がり、香織が「この間、部活帰りに偶然会って、目が合っちゃったんだよね」と話すと、みんなが「えー!それ、脈ありじゃない?」と囃したてた。あの時の友人たちは皆、結婚し、子供を持ち、それぞれの人生を歩んでいる。SNSで流れてくる幸せそうな写真を見るたび、自分だけが取り残されたような感覚が募る。
社会人一年目の誕生日も印象に残る。会社の上司や同僚に祝ってもらった。入社したばかりで右も左も分からなかった香織に、先輩達が「おめでとう」と声をかけてくれた。帰り道、行きつけのバーで一人、小さなグラスを傾けた。期待と不安が入り混じった、少しだけ大人になった自分の影が、グラスの向こうで揺れていた。転職し、当時の同僚たちとは年賀状のやり取りが何人かとあるだけだ。
四十九歳最後の日と五十歳最初の日は、何も変わらない。それでも、何かは変わったのだ。誰もいない部屋に、自分の為だけに用意したカーネーション。撮った写真は誰かに送るわけでもなく、自分のスマホに保存し画面をそっと閉じる。そして、新しい一日を始める為部屋のドアを開け、外へと足を踏み出した。(文字数:1000)