【1000文字小説】ひな、バットを振る
ひなは教室では誰とも話さず、部活にも入らなかった。まっすぐな黒髪は手入れはされているが飾り気もなく、顔立ちは整ってるが無表情さが印象を薄くしている。高校一年生の彼女は放課後、バッティングセンターに立ち寄る。学校からほど近いその場所は、楽しそうに話しながら打っているカップルや大声で盛り上がる野球部員たちで賑わっていた。
受付でコインを購入し、一番遅い球がくる打席に立つ。ヘルメットをかぶり、硬くて重いバットを両手で握りしめた。だが、ひなが想像していたよりもボールは速く、乾いた空振りの音だけがネットの中に響き渡る。バットを振る。ボールはただ目の前を通り過ぎていくだけ。観ているだけでは分からなかった、この、どうしようもないズレ。
それからの放課後は、バッティングセンターで過ごした。はじめはただ無心にバットを振っていたが、やがて頭の中でスイングの解析をするようになる。最初は手打ちになっていたせいで、ボールが力なく飛んでいた。一ヶ月もたつと、コツが掴めてきた。軸足にためをつくり、腰を回転させて、その力をバットに伝える。そんな一連の動作を、何度も何度も繰り返す。頭の中で、スイングの理屈を組み立てていく。日常の動きとはまったく違う、身体の新しい使い方。
ひなはさらに上のレベルを目指し、練習方法を工夫する。速い球だけでなく、わざと遅い球を選んで打席に立つ。スピードの緩急に対応するには、ギリギリまでボールを引きつけ、重心を後ろに残したまま、バットの軌道を調整する。アウトコースのボールは逆らわずにライト方向へ打ち返し、内角の厳しい球に対しては手首を返さずにヘッドを立たせるように意識する。バットの芯にボールが当たると甲高い金属音が響き、ボールは真っ直ぐに飛んでいく。ホームランに近い当たりに、呼吸が少し荒くなった。
その日も飛んできたボールに集中していた。どうもこれまでは力み過ぎていたようだ。ひなは脱力し、バットを振りインパクトの瞬間だけ力を込めて振り抜いた。今まで聞いたことがないほど澄んだ音が響き渡り、ボールは力強く空を舞った。白い球は弧を描きながらホームランラインを越えた。「なるほど、こうすれば届くのか」手のひらに残るバットの振動がじんわりと広がる。一人で繰り返してきた日々が、この一瞬に凝縮されたように感じた。ふと、口元が緩むのを感じた。それは、誰にも見られていない、自分だけの小さな勝利だった。(文字数:1000)


 
 
 
