【1000文字小説】ノイズキャンセラー
そのマンションは、築三十五年の鉄筋コンクリート造。家賃は周辺相場より三割も安かったが、内見の際に仲介業者はこう付け加えた。
「ただし、この物件には『残響』が残っています。専門の処理が必要です」
入居して三日目、業者の言った意味がわかった。深夜二時、誰もいないはずのキッチンの方から、会話の途中を切り取ったような声が聞こえてきた。
「……で、結局、誰のせいなわけ?」
それは幽霊というより、録音されたテープの再生に近かった。前の住人が繰り広げた激しい痴話喧嘩のエネルギーが、コンクリートの壁に染み付いて離れないのだ。
僕は翌朝、管理会社に電話した。
担当者は少し困ったような声で説明した。
「通常の騒音対策は管理会社の負担になりますが、残響は心理的要因扱いでして。専門業者をご紹介することしかできないんです」
管理会社に紹介された「コズミ空間調整所」に、僕は渋々電話をかけた。
やってきたコズミさんは、作業着のポケットからデジタル騒音計ではなく、古びた聴診器を取り出した。壁のあちこちにそれを当て、時折「ああ、これは深いな」と独り言を漏らす。
「どうですか、直りますか」
「直す、というよりは『吸い出す』工程になりますね。あなたの部屋の残響は、およそ一万二千ヘルツの『憎悪』と、四百ヘルツ付近の『未練』が混ざり合っています。特にこの角。ここに一番強い言葉が溜まっている」
コズミさんが指さしたのは、僕がベッドを置こうとしていた場所だった。
「作業代金は、一箇所の吸引につき八千円。四隅すべて行うとセット割引で三万円になります。出張費込みで、税込三万三千円。お支払いは現金のみです」
僕は渋々、三万三千円を支払った。コズミさんは大きな注射器のような器具を壁に突き立て、ゆっくりとレバーを引いた。シュウ、と空気が漏れるような音がして、部屋の温度がわずかに下がった気がした。
「吸引した残響はどうするんですか?」
「これですか?これは『再資源化』されますよ。加工して、ホラー映画の環境音に使われたり、あるいは……都会の喧騒の中に紛れ込ませて、特定の誰かの精神を少しずつ削るための『工業用ノイズ』として売却されます」
コズミさんは、吸引した「どろりとした黒い空気」が詰まったボトルをカバンに仕舞った。
「これで今夜からは静かになります。ただ、あなた自身がこの部屋で大きな声を出したり、誰かと激しく争ったりすれば、また壁は吸い始めますよ。コンクリートは意外と喉が渇いているものですから」
コズミさんが帰った後、部屋は不自然なほど静まり返った。
僕は一人、三万三千円の静寂の中に座り込む。壁に向かって何かを言おうとして、やめた。
この壁は今、僕の吐き出す言葉を、空腹の獣のように待ち構えているのだ。
その夜、僕は一言も発さずに眠りについた。
壁の向こう側で、微かに、本当に微かに、別の部屋から吸い上げられた誰かの啜り泣きが、配管を伝って聞こえたような気がしたが、僕はあえて耳を塞いだ。