【1000文字小説】呼吸の旋律
夜のスタジオに、黒川璃子は静かに立っていた。
かつてクラシックピアノを学び、大学では音響工学を専攻した彼女は、現在、先端音楽インターフェースの研究者として活動している。だが本人は、自分を作曲家とも演奏家とも呼ばない。彼女が開発しているのは「曲」ではなく、「音を生む身体そのもの」だった。
壁一面に並ぶセンサーとスピーカーは、演奏者の脳波、筋電信号、呼吸の周期を読み取り、音響構造へと変換する。
これは楽器なのか、それとも作曲装置なのか。
璃子自身、その境界をあえて曖昧にしたまま研究を進めてきた。音を決めるのは人間か、システムか。その問いに答えを出すこと自体が、この装置の目的だった。
ヘッドセットを整え、璃子は深呼吸する。
今日の実験は、あらかじめ音階もリズムも設計していない。身体が発した信号が、どのような音楽的構造を自律的に立ち上げるのかを観測するだけだ。
指一本の緊張、胸郭のわずかな拡張、心拍の揺れ──それらは「演奏」である前に、「素材」だった。
最初の一音。
空気が微かに震え、低く曖昧なベース音が空間を満たす。
璃子は反射的に次の呼吸を調整する。すると音は旋律めいた連なりを持ち始めた。
その瞬間、彼女の胸に小さな違和感が走る。
――これは、私が作っているのだろうか。
音は確かに彼女の身体から生まれている。だが、展開の仕方は彼女の記憶にあるどの作曲技法とも一致しない。意図していない和声が重なり、予測できないリズムが立ち上がる。
心拍がわずかに早まる。
それを拾ったシステムが、低い電子音を加えた。
低音は次第に分裂し、左右のスピーカーからわずかにずれた周期で脈打ち始めた。
呼吸に合わせていたはずの旋律は、いつの間にか璃子の制御を離れ、彼女の肺の動きより一拍早く、あるいは遅れて鳴る。
息を吸う。
音が先に立ち上がる。
吐こうとすると、今度は遅れて追いかけてくる。
身体が「原因」ではなく、「予測対象」に変えられていく感覚。
高域で細かなノイズが発生し、壁際のセンサーが警告色に変わった。
璃子の意図とは無関係に、音は呼吸を煽り、心拍を押し上げ、その反応をさらに素材として取り込んでいく。
循環が閉じる。
一瞬、このまま装置を止めなければ、自分の身体のリズムそのものが書き換えられてしまうのではないか、という考えがよぎった。
美しい、と璃子は思ってしまう。だが同時に、恐怖もあった。もしこの装置が「楽器」だとしたら、演奏者は誰なのか。もし「作曲機械」だとしたら、自分の役割はどこにあるのか。
一瞬、ヘッドセットを外そうと手が動く。
だが璃子は踏みとどまった。
制御できない音が生まれることこそ、彼女が信じてきた音楽の可能性だったはずだ。
やがて音は自然に収束し、空間に残響だけが漂う。
璃子は静かに装置を停止し、ヘッドセットを外した。
この体験は論文としては「再現性に乏しい」という評価を受けるかもしれないが、その事実こそが彼女の研究の核心だった。
作曲でも、単なる演奏でもない。
身体が楽器となり、同時に作曲家でもある状態。
その不安定な位置に立つことを、彼女はもう一度引き受けようとしていた。
「これが……新しい音楽だ」
呟きながら、璃子は窓の外の夜空を見上げる。
星の間に、聴覚には届かない振動が、今も微かに共鳴しているようだった。