【1000文字小説】相関係数0.87
ナカミアヤネは、恋愛感情を数式で扱うことにためらいがなかった。
脳情報動態研究所に勤める研究員として、人間の情動を神経相関で記述する日々を送ってきたからだ。
実験対象は、長期同居中の男女二百組。
視床下部、前頭前野、扁桃体の活動を高解像度fMRIとEEGで同時測定し、情動同期率を算出する。二人の脳内信号が、どれほど同じ時間構造を共有しているかを指標化したのがアヤネたちの恋愛モデルだった。
恋愛とは、同期現象である。
少なくとも、測定可能な範囲では。
アヤネ自身も被験者の一人だった。
相手は同じ研究所に勤めるサクマタクヤで、交際七年目になる。タクヤは実験前、少し緊張した様子で微笑み、「僕の未来予測モデルでは君との同期率は0.91になるけど…実際の緊張も反映される」と言った。普段冷静なタクヤの声には、微かな震えが混ざっていた。タクヤもまた、数値に翻弄される人間だった。
モニターに表示された数値は、0.87。
統計的には極めて高く、長期関係が維持されやすい値だ。
「いい結果だね」
タクヤは安心したように言う。
「そうね」
アヤネは笑顔を作るが、心の奥にはわずかな不安が残る。
詳細な波形を観察すると、違和感があった。
会話のない時間帯、タクヤの情動信号は滑らかで安定。一方、アヤネの波形には微細な揺らぎが残る。相関は高いが、位相は常にわずかに遅れていた。
「誤差の範囲?」
タクヤが尋ねる。
「統計的には、意味のない差よ」
アヤネは即答する。数式は嘘をつかない。
その夜、アヤネは研究所の近くを歩いた。
冬のチューリッヒ、街灯が雪に反射し川面に揺れる。通り過ぎる人々は、それぞれ異なるリズムで歩き、未来に目を向けている。歩幅や息遣いさえも、アヤネの脳波の同期とは無関係に流れていく。街の世界と自分の脳内信号がずれ、同期できない感覚に、アヤネは静かに息を吐いた。数値だけでは語れない現実がここにある。
自宅に戻り、数値を再解析する。
高い相関とは、必ずしも同じ未来を向いていることを意味しない。単に、長く共有した過去が強く結びついているだけかもしれない。
アヤネは試験的に、新しい解析モデルを走らせる。
「未来志向の相関率」――次週の情動変化の一致を予測するマルコフ連鎖時系列アルゴリズムを組み込んだものだ。
結果は、0.42。
恋愛関係としては、持続困難な値だった。
アヤネはこの数値を胸にしまい込み、正式には報告しなかった。
数日後、研究所の帰り道、アヤネはタクヤに別れを告げる。
夕暮れのベンチで、タクヤは言葉に詰まり、眉を寄せ、焦燥が目に滲む。普段冷静なタクヤも、言葉に迷い、微かに肩が震えていた。アヤネは何も説明せず、数式も相関係数も口にしなかった。
タクヤが去ったあと、アヤネは空を見上げ、深く息を吸う。
オレンジ色に染まる街灯、川面の微かな揺れ。心拍計をつけたように胸は一定のリズムで動いているが、手のひらには微細な震えが残る。数値では表せない、感情の痕跡だ。
アヤネは理解する。
恋愛とは、現在の一致を測ることではない。
未来に、同期しない可能性を引き受ける勇気なのだと。