【1000文字小説】最適化されない上司
会議室の空調は、彼女には常に最適化されているように見えた。
二酸化炭素濃度、室温、湿度、参加者の心拍変動。すべてが管理され、議論の生産性は理論上、数値である程度保証されているはずだった。
ただし、責任の配分までは最適化されていない。
壁面ディスプレイに表示された失敗率のグラフを前に、主任研究員の山岸は、いつもの微笑を浮かべて言った。
「今回の予測誤差は、現場モデルの調整不足だね」
山岸は身振りが大きく、声も朗らかだが、目は冷静に部下の反応を計算しているようだった。笑顔の奥に、誰も言い返せない空気を作り出す力があった。
その言葉と同時に、視線が彼女に向く。
山科ミズホは、反論しなかった。正確には、できなかった。
喉の奥がわずかに熱を持ち、息を吸うだけで言葉が崩れそうだった。
量子気象制御システムの誤差は、彼女の担当範囲ではない。上位アルゴリズムのパラメータは、主任の権限で上書きされていた。彼女の拡張認知では、過去の変更履歴が間接的に追跡できるため、ログ上には記録されているはずなのはわかる。
だが、そのログにアクセスする権限は、彼女にはなかった。
「次からは、もっと注意してくれ」
山岸は穏やかな声で付け加えた。だがその口調は、数字や規則だけでは推し量れない、微妙な威圧感を含んでいた。
誰も異議を唱えなかった。最適化された空調の下では、沈黙が最も摩擦の少ない選択肢に思えた。
自席に戻り、ミズホは端末を開く。
彼女の拡張認知は、失敗の因果関係を正確に追跡している。誰が、いつ、どの判断を下したのか。
すべて把握している。
分かっていても、言葉にはできない。
組織行動予測AIは、彼女が異議を唱えた場合の未来を即座に提示した。評価低下、配置転換、研究権限の剥奪。
どの分岐も、個人にとってはあまり好ましい結果にはならないだろう。
ミズホは修正案を提出した。
失敗の原因には触れず、結果だけをなだらかに補正する提案だ。システムは静かに安定へ向かうはずだった。
それでいい、と彼女は思う。
そう思わなければ、ここで働き続けられない。
夜、研究棟を出ると、制御された雲が彼女の目には規則正しく空を覆っているように見えた。
明日の天気も、ほぼ完璧に近いはずだ。
誰の判断だったかを問わなければ、世界はうまく回るように思える。
そう設計されているらしい。