【1000文字小説】読まれる世界

 ミナト アオイが被験者に志願した理由を、研究所の誰も深くは問わなかった。

神経言語工学の主任研究員。投影読書システムの設計責任者の一人。合理的な説明はいくらでも成り立つ。

だがアオイ自身は知っている。

文字を読むとき、世界がわずかに遠のく感覚――その恐怖から、逃げるためにここにいることを。


投影読書の起動とともに、網膜の奥で刺激が連鎖する。

外界の光は遮断されない。意味の輪郭だけが、半透明の文字となって浮かび上がる。視神経から言語野、そこから視覚野へ。遅延は0.3秒。人間が現在と認識できる限界値だ。


アオイは廊下を歩きながら、百年前の小説を読む。

紙の本だった時代、読書は座ることを要求した。視線を落とし、世界から身を引く行為だった。だから彼女は、読むたびに現実が希薄になる感覚を覚えたのだ。


――被験者B、心拍安定。脳波も正常範囲です。

天井のスピーカーから、監視員の声が淡々と響く。


「了解」


返事をしながら、アオイは気づく。

白い壁が、わずかに色を変えている。小説の中で描写されている夕暮れの比喩に引きずられ、色温度が現実側まで滲み出している。


これは想定内か。

いや、仕様書にはない。


投影読書は「意味」を直接送らない。あくまで文字だ。誤読を許容するための設計。完全理解は思想操作に近づくという倫理委員会の判断が、アルゴリズムの核に組み込まれている。

だが今、誤読は内側に留まらない。


文字は空間の一部として振る舞い始めている。


――視覚入力に微細なズレがあります。補正を――

監視員の声が途切れる。


アオイは立ち止まる。

瞬きをしても、文字は消えない。読むのをやめても、読んだ情景が廊下に残る。読書とは本来、内的な行為だったはずだ。それが今、外界と不可逆に結びついている。


彼女は思い出す。

幼い頃、活字に没頭しすぎて、呼びかけに気づかなかった自分を。読むたびに、世界から一歩遅れる感覚を。


だが今は逆だ。

読むことで、世界のほうが彼女に追いつこうとしている。


――被験者B、実験を中断します。指示に従ってください。

監視員の声には、わずかな緊張が混じっている。


アオイは歩き出す。

文字は彼女の歩行に合わせ、自然に行送りされる。世界が読書に適応している。


実験終了の合図。

文字が、ゆっくりと薄れていく。


現実だけが残る。

白い廊下。無音。だがアオイは知っている。読むことをやめても、世界が元に戻るわけではないことを。


報告書にはこう書くだろう。

「技術的には成功」


そして行間に、書かれない恐怖が残る。


読むことで世界が遠のくのではない。

世界が、読まれる側に回ってしまったのだ。


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