【1000文字小説】大正の静止系
大正十一年、東京本郷。
鷹宮澄子は帝国大学理学部の地下実験室で、真空管の灯を無言で見つめていた。白衣の袖口は煤で黒ずみ、髪はきつく結われている。女学生がここに立つこと自体、まだ説明を要する時代だった。
澄子が取り組んでいるのは「時間の遅れ」の実証だ。欧州から届いた相対性理論の論文は、運動する系では時間が変化すると主張する。しかし懐中時計では差は測れない。そこで彼女は機械の歯車ではなく、電気振動を時計に選んだ。
二つの同一LC発振回路。一方は静止、もう一方は鋼鉄製の回転円盤の外縁に固定する。真空度、温度、導線長――誤差要因はすべて数式に落とし込まれていた。円盤が回転を始めると、発振周波数は増幅され、干渉縞として記録紙に刻まれる。
軸受が低く唸り、油と埃の匂いが漂う。紙の縞がわずかに揺れるたび、澄子は呼吸を止めた。微細な位相差が、理論通りの符号で現れる。二度、三度と回しても差は変わらない。熱でも振動でも説明できない差が、確かに存在した。
彼女は装置を止め、配線を改め、再び回す。縞の微妙な変化に心臓の鼓動が同期するようで、実験の緊張が指先まで伝わった。
窓の外では市電が行き交い、人々は同じ時を共有していると思い込んでいる。しかし澄子は知っていた。速度が違えば、時間もまた異なる。均一なものなど、最初から存在しなかった。
結果を理解できる人は少ないだろう。女の実験である以前に、時代が早すぎる。それでも彼女の手はぶれなかった。記録紙を揃え、表紙に静かに題名を書く。
「運動系における電気振動の時間的偏差」
手を離した指先にはまだ、わずかな振動の余韻が残っていた。まるで円盤の運動の余波が皮膚を撫でているかのようで、心臓の鼓動と微妙に共鳴している。呼吸を整え、椅子から立ち上がると、背筋に小さな寒気が走った。光と影の中で、世界は以前と同じ速度で動いている。だが澄子の内面では、時間の進み方が外界とは微妙にずれていた。
彼女が一歩を踏み出すたび、床の木目がわずかにずれるような錯覚を覚えた。市電の鈴の音がゆっくりと伸び、遠くの歩行者の足音が彼女の意識に遅れて届く。時間のずれは皮膚を通しても感じられ、外界のリズムと自分の脳内リズムの間に小さな隙間が生まれた。
外を行き交う人々の笑顔は、まだ外界の時間に従って動いている。澄子はその差を静かに観測し、自身の感覚の中で新しい時間のリズムを確かめた。世界が追いつくまで、真理はここに置かれていればいい。