【1000文字小説】戦後の雑音

 終戦から二年。焼け跡の残る横浜の臨港倉庫で、白石綾は周波数計の針を見つめていた。進駐軍が残した真空管と、日本製の粗末な抵抗器。寄せ集めの装置だが、彼女の計算では十分だった。


戦時中、綾は海軍技研で通信雑音の研究をしていた。敵味方の電波が重なり、信号が消える理由を数式で追っただけだ。だが敗戦後、その数式は別の意味を帯び始めた。雑音は無秩序ではない。温度と帯域幅が決める、必然の揺らぎだ。


倉庫の外を、貨物列車が鈍い音を立てて通り過ぎる。煤と潮の匂いが入り込み、真空管がかすかに鳴った。綾は、一緒に働いていた同僚の顔を思い浮かべる。疎開先から戻らぬまま消息を絶った高橋のこと。戦争は人を奪った。だが、残った者はこうして、日常の片隅で、微かな希望を探している。


彼女が測ろうとしているのは、熱雑音の絶対値だった。抵抗体が発する微弱な電圧変動は、ボルツマン定数に比例する。理論は欧米で知られていたが、実測はまだ少ない。電源事情の悪い日本では尚更だった。綾の手は震えた。目の前の数値は、戦争の喪失感を癒してくれるわけではない。でも、確かに存在する「揺らぎ」が、何よりも真実だと彼女は信じたかった。


測定値が戦時の癖――都合のよい数字を信じる習慣――に引きずられていないか、一瞬だけ疑った。しかし針は揺らぎ、その分布は計算と一致していた。電圧の平均は零、分散だけが温度を語る。抵抗は何も主張しない。ただ、世界が必然として揺れていることを示す。


戦争は終わり、命令も消えた。残ったのは、熱と電気と数式だけだ。綾は記録用紙を重ね、摂氏温度を書き添えた。人の意思が介在しない量を、今は信じたかった。誰かが見てくれなくても、嘘のない事実だけが慰めになる。


雑音は嘘をつかない。


それだけが、戦後の基準系だった。


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