【1000文字小説】未来は手の内
二千五百年、東京湾の人工都市。
水無瀬リナは空中回廊の上で、気温制御服の内側に表示されるセンサー値を確認していた。外気は人間の皮膚には不向きだが、数値は常に安全域に収まっている。都市全体が、そう設計されている。
ガラスと光ファイバーで覆われた街は、夜でも昼でもない淡い青に満ちていた。光は太陽由来ではなく、都市自身が発する制御光だ。周期も強度も揺らぎは許容範囲内。リナはその事実に、わずかな安心を覚える。
彼女の手元には、小型プラズマ発生器が一台あった。掌に伝わる振動は極めて微弱で、制御され尽くした人工的な感触だ。
リナは量子通信の偏差を測定している。宇宙エレベーターを経由し、地球外ステーションと行き交う光子信号。理論上、情報伝達は瞬時に近い。しかし現実には、重力勾配、熱雑音、真空の不均質が、必ず誤差を生む。
人類はその誤差を理解しているが、完全には消せない。
リナは視線を宙に泳がせ、頭の奥で数式をなぞった。
二百年前に確立された量子力学、電子工学、統計力学。その基本式は、二十五世紀になっても書き換えられていない。文明は都市を浮かべ、宇宙に伸びたが、自然法則だけは手つかずのままだ。
回廊を行き交うドローンの羽音が、規則正しく反射する。下層階の冷却施設から立ち上る金属臭。床を伝う微細な振動。
リナは、ふと立ち止まった。
センサー値は理論と一致している。
振動の位相、温度分布、信号遅延――すべてが、予測通りだ。
それなのに、指先の感覚だけが、ほんのわずかに合わない。
数値には現れない、説明不能な違和感。
彼女は一瞬だけ、考えた。
もしこの一致そのものが、どこかで最適化されすぎているのだとしたら。測定される前に、すでに「測定しやすい世界」に調律されているのだとしたら。
――それでも、確認する術はない。
リナは深く息を吸い、疑念を数式の外へ押し出した。科学者が信じるのは、感覚ではなく再現性だ。
小型プラズマ発生器を微調整し、信号を再送信する。干渉パターンは理論通り、局所的なズレを正確に描き出した。
予想通りの結果。
それでも胸の奥に、かすかな高鳴りが残る。
都市の光が遠くの海面に反射し、ゆっくりと揺らめく。リナは記録端末にデータを保存しながら、短く独り言を漏らした。
「……やはり、未来は手の内にある」
だがその言葉は、確信というより確認だった。
偏差は消えず、しかし制御可能な範囲に収まる。未来とは、完全に支配されるものではなく、計測と修正を繰り返す対象にすぎない。
リナは再び歩き出す。
青い光の都市の中で、数値と振動に囲まれながら。
未来は、手の内にある。
ただしそれは、常に測り続けられる限りにおいて。