【1000文字小説】誤差のない地平

 彼女は毎朝、地平線の数値を確認する。

それは風景ではなく、計算結果だった。

月面観測拠点〈アガルタ〉の外壁越しに見えるのは、常に同じ角度の太陽と、影の長さを失った地形。だが彼女――観測主任のユイにとって重要なのは、視界ではない。地平線の向こう側にある「質量の偏り」だった。

低重力環境にもかかわらず、朝はいつも体が重い。防寒スーツの内側にこもる冷えが抜けず、指先がわずかにかじかむ。彼女は癖で、計測開始前に左の手袋を一度だけ強く握る。理由は自分でも覚えていない。

重力波干渉計は、今日も誤差ゼロを示している。

理論上ありえない値だ。

「また、静かすぎる」

誰に向けた言葉でもなかった。月の裏側では、地球からの通信も、宇宙背景放射の揺らぎさえも、奇妙なほど整っている。まるで誰かが、面倒な誤差だけを消していったかのようだ、と。

ユイは端末を操作し、過去三十年分の観測ログを重ね合わせた。

質量分布、時空曲率、量子ゆらぎ。

すべてが、理論モデルと完全に一致している。

一致しすぎていて、そこには観測の痕跡がなかった。

自然とは、本来こうではない。

誤差があり、ノイズがあり、予測不能であるはずだ。

彼女はふと、学生時代に父と交わした他愛のない会話を思い出す――「完璧な天気予報があったら、逆に気味が悪いな」

この宇宙でも同じことが起きている、と彼女は一瞬、根拠もなく思い込む。

「……誰かが、観測している」

ユイの背筋に、重力とは別種の重みが走った。

もしこの宇宙が、外部から最適化された計算結果だとしたら。

もし人類の物理法則が、出力仕様に過ぎないのだとしたら。

端末に新しいログが刻まれる。

〈観測者:ユイ・サトウ〉

〈観測対象:宇宙〉

表示が切り替わった直後、数値がわずかに揺れた。

誤差は、彼女が見ているあいだだけ、そこにあった。

彼女は無意識に手袋を握りしめ、息を止める。

その誤差が、どこから生まれたのかは、まだわからない。

<1000文字小説目次>

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