【1000文字小説】遅延の中
定年の日、佐原恒一は研究棟の端末から個人IDを外した。
四十年務めた宇宙環境解析部門は、翌週には新しい主任の名前に更新される。引き継ぎは終わっている。未解決の問題も、未完のモデルも、すべて「今後の課題」として整理された。
彼の専門は恒星間塵の分布予測だった。探査機の航路設計に必要な、ごく地味な仕事だ。成果が可視化されることは少なく、事故が起きなければ評価もされない。それでも、計算結果が現実と一致した瞬間の静かな確信だけで、長い時間を生きてきた。
退職後、佐原は郊外の小さな住宅に移った。研究用の高性能端末は返却したが、古い個人用計算機だけは手元に残した。処理能力は低い。だが、演算精度が落ちる分、計算の仮定が露わになる。その遅さが、今の生活にはちょうどよかった。
毎朝、彼は同じ時刻に起き、簡単な朝食をとる。予定表は空白だ。だが完全な自由は、思っていたほど心を軽くはしなかった。時間は均等に流れているのに、意味づけだけが欠けている。
ある日、旧知の後輩から短い通信が届く。
新型探査機の航路に、微小な誤差が見つかったという。
佐原は端末を起動し、公開データを呼び出した。計算は遅く、結果が出るまでに何度も茶を淹れ直す。それでも、数値は彼の予測と一致した。原因は恒星間塵の密度変動だ。彼が長年扱ってきた、誰も注目しない項目だった。
返信は簡潔に済ませた。追加の説明も、感想も書かなかった。役割はすでに終わっている。だが、理解はまだ体の中に残っている。
夜、窓の外に星が見える。光は何年も前に放たれ、今ようやく届いている。
佐原は思う。仕事を離れても、時間差の中で役に立つことはある。
定年後の人生とは、そういう遅延の中に身を置くことなのかもしれない。