【1000文字小説】右辺の空白
観測衛星《K-317》は、恒星間空間で停止していた。
推進剤は残っている。電力も正常だ。それでも、相対速度がゼロから変化しない。
私は地上管制の解析担当として、そのデータを見ていた。
問題は重力だった。
衛星の周囲に、質量を持たないはずの「重力勾配」が発生している。時空の曲率は検出されるが、対応する質量項が存在しない。アインシュタイン方程式の右辺が、空白になっている。
「負のエネルギー密度か?」
誰かが言った。だがそれでは説明がつかない。負であっても、項は存在する。
この重力は、原因を持たずに存在していた。
解析を進めるうち、私は一つの仮説に行き着いた。
《K-317》は、未来の自分自身を重力源として検出している。
衛星は、観測用の量子時計を搭載している。通常は、固有時間と地上時間の差を測るだけの装置だ。本来はこんな使い方を想定していない。しかし今回、時計は「進んで」いた。
未来の値を、先に示している。
つまり、衛星はまだ存在しない未来の状態と、弱く結合している。
その未来において、《K-317》は極端な加速を受け、強い時空曲率を生む。その影響が、過去側に漏れ出している。
因果が、閉じかけている。
「このままでは、事象地平線が形成される」
私は上司に告げた。
ブラックホールではない。だが同様に、外部からの操作が届かなくなる境界が生まれる。衛星は、未来の自分に引き寄せられ、現在から切り離される。
回避策は一つしかない。
未来の《K-317》が加速しないようにすること。
だが、それは不可能だ。未来の運用計画は、すでに確定している。推進噴射は、別の危機を回避するために不可欠だった。
私は、最後の指令を入力した。
量子時計の電源を切る。
観測をやめれば、結合は断たれる。未来は未来のまま、現在は現在に戻る。 因果は、再び一方向になる。
通信が回復した。
《K-317》は、再び通常の軌道を取り戻している。
数秒後、私は気づいた。
解析ログの未来時刻部分が、完全に消失している。
そこには、本来なら私が入力したはずの別の指令があったはずだった。
それが何だったのか、もう誰にも分からない。
事象地平線は閉じなかった。
だが、失われた因果は、観測されない限り存在しない。