【1000文字小説】帰還の微重力
カレン・ミヤモトは、補助酸素マスクを手に持ったまま、宇宙船のエアロックに立っていた。木星からの帰還船「イカロスIII」は、予定通り太陽系内軌道に復帰している。だが彼女の呼吸は浅く、手元の計器に視線を落としていた。
「酸素21%、圧力101.3kPa……でも、手がこんなに震えるのは、予想以上だ」
補助酸素マスクは、単なる習慣だった。深宇宙での長期滞在は、骨密度を地球基準の85%、筋肉量を78%に減少させ、血液濃度もわずかに低下させる。木星軌道に500日滞在した体は、地球の重力に戻った瞬間から奇妙な不安定さを示す。
エアロック内部、船内、回収ポッド――すべての計器は正常範囲内だ。しかしカレンはそれを完全には信用できなかった。木星探査で経験した電磁嵐の影響か、あるいは放射線による神経系の微細な損傷か。科学的説明はあるが、精神はまだ宇宙空間のリズムに適応したままだ。
船内通信が微かに振動する。地球管制からの復帰確認信号だ。
カレンは微笑みかけるように、通信端末に手をかざす。端末の冷たい金属が掌に馴染む感覚が、彼女に地球の実感を与えた。そこに映る管制官の名前を見て、一瞬だけ視線が止まる。出発前、打ち上げ場で見送っていた顔だった。
「木星は……遠かった」
視界の外で、船外モジュールがゆっくり回転している。光の屈折、金属の陰影、遠心力による微妙な揺れ。どれも理論通りだが、カレンの身体には未だ違和感として残る。五百日分の引力差、放射線量、微粒子の衝突。計算では小さな値でも、体験としては膨大だった。
カレンは補助酸素マスクを口に当てず、ゆっくり息を吐く。酸素供給系は完全に自律している。彼女が感じるのは、計器には表れない体感としての圧迫感と疲労――帰還の重みだった。
その重力に慣れない体は、無意識に手を軽くつきながら歩いたり、床に近い位置で小さく跳ねるようにしてバランスを取った。カレンは自分の動きを見下ろして、笑った――その笑いは、五百日間の孤独をすべて押し流すように、身体を震わせた。
そして、突然思った。
「この体はすぐには地球の重力に戻れない――いや、戻る気もまだないんだ」
船内の人工重力は0.98 gに微調整されていたが、胸の圧迫感がわずかに増す。微小な制御誤差で体のバランスが崩れ、床に手をつく瞬間もあった。その一瞬、床が遠ざかる錯覚が走り、木星周回軌道の暗闇が脳裏に蘇る。
カレンは歯を食いしばり、深呼吸して姿勢を立て直した。
「Δvの微修正……0.03 m/sで安定させる……」
頭の中で軌道復帰の数値計算を繰り返す。瞬間、センサーが一度だけ0.002秒の遅延を示し、予測軌道とわずかにずれた。技術的には無視できる誤差だが、心臓が一拍、強く打つ。
――もし、まだ戻れないのだとしたら。
そんな考えを、計算で押し流す。
制御は即座に再同期され、警告は消えた。だが身体はその余波として短時間ふらついた。科学と肉体の両方が、帰還の重力に順応する必要があった。
宇宙船の舷窓から見える青と白。地球だ。五百日ぶりに、確かな星が目の前にある。
カレンはゆっくりと足を床に下ろし、重さを確かめる。
計器ではなく、体で、心で、彼女は帰還を理解した。