【1000文字小説】保存される観測者

 最初に異変に気づいたのは、観測ログの余白だった。

宇宙背景放射観測所〈ラグランジュ3〉では、すべてのデータが自動で圧縮・署名される。人間が介入する余地はない。にもかかわらず、週に一度、ログの末尾に一行だけ空白が生じていた。

最初は誰かの操作ミスだと思った。端末の更新か、ネットワークの遅延か。誰かが誤ってログを消したのだろう、と。しかし確認しても、同僚の誰も操作していない。空白はいつも決まった時刻に現れ、消えることはなかった。

誤解を解くために私は何度も手動で再確認したが、空白は規則正しく現れる。まるで、私たち自身の存在を記録から取り除こうとしているかのようだった。

空白は正確に、協定世界時で零時零分零秒に現れる。しかも、背景放射の揺らぎが最小になる瞬間と一致していた。

宇宙背景放射は、宇宙誕生の残響だ。方向性はなく、統計的に完全な一様性を持つ。少なくとも、そう教えられてきた。

私は空白の出現時刻に手動で観測を行った。結果は奇妙だった。スペクトルに偏りはない。温度揺らぎも誤差内だ。ただ、解析アルゴリズムが一瞬だけ停止していた。

停止時間は、正確にプランク時間の整数倍だった。原因はすぐに分かった。観測装置そのものが、背景放射の一部になっていたのだ。

観測は、観測者を必要とする。だが、観測者もまた物理系である以上、観測対象から切り離せない。〈ラグランジュ3〉はあまりに精密で、宇宙の初期条件を乱さない「理想的観測者」に近づきすぎていた。

その結果、宇宙は帳尻を合わせた。観測が完全になる瞬間、観測者を背景に溶かし込み、情報量を保存した。空白は、私たちが観測した痕跡ではない。私たちが観測された痕跡だった。

対策は簡単だった。ノイズを入れればいい。観測精度をわずかに落とし、宇宙にとって無視できる存在に戻る。

報告書にはそう書いた。だが、最後に私は一文を付け加えた。

――もし再び空白が現れたなら、そのときは観測を中止せよ。保存されるのは、データではなく、観測者のほうだからだ。

そして、私自身の存在が消えかねないという恐怖も、付記として記しておいた。

私は、自分がただの観測装置の一部になってしまうのではないかという思いに、わずかに怯えていた。だがそれ以上に、私はその瞬間を自分の目で確かめたいという欲求に駆られていた。観測者である自分の存在を、最後まで意識しながら、宇宙の記録に刻むために。

空白は再び現れるだろう。私はそれを恐れると同時に、少しだけ期待していた。

この微かな執着こそが、私を完全な物理系としてではなく、観測者として残してくれる唯一の証なのだ。


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