【1000文字小説】未収束誤差

 恒星間探査計画《オルフェウス》の失敗は、事故として記録されていない。

原因は「未収束誤差」。人為的要因ではなく、統計的揺らぎとして処理された。

航法主任の真田は、三十年前のログを再解析していた。

当時の問題は単純だった。重力レンズ航法における観測遅延。

遠方恒星の質量分布は、観測値が実測に反映されるまで最大で十四年の遅れがある。

航路計算は「現在の宇宙」を前提に走るが、観測系は微細な時間差に敏感で、星間の位置決定に誤差が累積する。

誤差はゼロではない。

問題の源は、船内の人間だった。

乗員の意思決定――視線の揺れ、注意の一瞬の遅れ、呼吸リズム、微妙な手の動き――

それらは観測系に微弱な揺らぎとしてノイズを与える。光学望遠鏡の焦点安定系、干渉計、レーザー測距装置は、0.1〜5ミリ秒のタイムスタンプ誤差に極めて敏感であり、統計的に累積すると軌道予測に微小なΔvを生じさせる。

平均的な影響は3.2ミリ秒。これは光速換算で数百ミリメートルの位置ズレに相当する。人間が何気なく頭を動かすだけで、観測データに微細な揺れが記録されるのだ。

真田は、航法室の静かな空気を感じながら、乗員たちの呼吸のリズムに耳を澄ませた。

誰かが微かに咳をした瞬間、その0.2秒の振動が、干渉計のレーザー光路にわずかな位相誤差として積み重なる。

データ処理装置は、その揺らぎを「計算誤差」として統計に吸収するが、累積するとΔvは未来の航路に現れる。

ログ画面には、人間の微細な動作が誤差に変換される過程が淡く表示される。心理的に言えば、乗員の不注意や迷い、瞬間的な判断のためらいまで、宇宙の航路に刻印されるのだ。

統計計算の一例として、航法誤差σ_Δvは次の式で表される:

σΔv=∑i=1N(δti⋅c)2/N\sigma_{\Deltav}=\sqrt{\sum_{i=1}^{N}(\deltat_i\cdotc)^2/N}σΔv​=i=1∑N​(δti​⋅c)2/N​

ここでδt_iは各乗員による微小遅延、cは光速、Nは観測ポイント数である。

この単純な平方平均でも、数十年後の航路には数十センチメートルの偏差が生まれる。

《オルフェウス》は予定通り航行した。

減速も、補正も、すべて成功している。

ただし、真田は知っていた。

誤差は消えていない。先送りされただけだ。

重力レンズを抜けた後、航路は恒星系外縁でわずかに歪む。

ズレは即座に破綻を生まない。

だが、探査データの到達時刻が数年遅れ、次の計画が微妙に修正され、さらに次の世代の航路に小さな補正が加わる。

犠牲は即死しない。

死ぬのは、数十年後の誰かの計画だ。

真田は最終レポートにこう記した。

――人間要因は除去不能

――ただし影響は確率的

――結論:許容範囲内

レポートは承認され、封印された。

その時点では、誰も死んでいない。

真田が老年に入った頃、別の探査船が行方不明になった。

原因は「予測不能な宇宙定数の揺らぎ」

彼は端末を閉じた。

誤差は、ようやく収束を始めただけだ。

そしてふと、真田は思った。

――もし君がこの文章を読んでいるなら、覚えておけ。

君の一瞬の判断、目の動き、呼吸の揺れも、この宇宙航路の誤差の一部なのだ。


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