【1000文字小説】昼五
路地裏の奥、昼だけ暖簾を出す小さなラーメン店「昼五」
カウンターは五席。昼の二時間、客数は十人に届くかどうか。それで店主は十分だった、と思うようにしている。日差しが斜めに差し込み、白い湯気が揺れる。静かな路地に鍋の音だけが響き、木のカウンターには年月の傷が刻まれている。時間は濃く流れ、独りの店主に焦りはない……と、自分に言い聞かせる瞬間が、日に一度はあった。
以前、従業員を雇っていた頃は違った。平均的な値段で、回転率を上げるために人手が必要だった。しかしスタッフはひどかった。麺を上げる秒数を守らず、スープを味見しない。客の目も気にせずスマホをいじり、裏で私語ばかり。注意すれば反抗的な返事。教育に時間をかけても身につかず、給料だけが消えていった。
ある日、寸胴のスープを任せたまま裏で居眠りしていたスタッフのせいで、数十リットルが台無しになった。「忙しかったので……」という言い訳を聞いた瞬間、店主の心は決まった。なら、一人でやった方がいい。誰も頼らず、誰にも裏切られない自由のために。
その夜、帳簿を閉じながら、本当にやっていけるのかと一瞬だけ考えたが、すぐにその考えを押し流した。
それから店は変わった。席を減らし、昼だけ営業にして値段を三千円に上げた。独りで鍋を操り、麺の湯で加減を手で確かめる。出汁は素材ごとに火入れを変え、水は毎朝汲みに行く。完成したラーメンの湯気、香り、音、すべてが自分の手の延長であり、失敗も成功も独り占めだ。
忙しい日は、逃げ場がないという事実だけが、胸の奥で小さく鳴った。
スタッフがいた頃は、指示を出しても無視され、裏で雑談されるだけだった。味の微妙な変化も伝わらず、誰かに任せる恐怖が常につきまとった。だが独りになってからは、鍋の状態も、麺の硬さも、箸の進み方もすべて自分で確認できる。時間に追われることも、言い訳されることもない。
その気楽さが、孤独を心地よく変える瞬間もあれば、逆に孤独がそのまま重さとして残る夜もあった。
客が箸を止め、ゆっくりとスープを味わう様子を見て、店主は微笑む。自分が作ったものだけが評価される瞬間。その達成感は、スタッフに振り回されていた日々にはなかった充足感だ。だが、客が黙って席を立ち、何も言わずに暖簾をくぐる背中を見送るとき、評価がなかったという事実も、同じ重さで残った。
閉店後、残った一杯を自分で食べる。熱いスープの湯気を吸い込み、麺をすする。うまい、と思う日もあれば、今日は少し塩が立ったかもしれないと思う日もある。それでも誰のせいにもできないし、する気もなかった。
誰にも期待せず、誰にも文句を言わせず、自分の価値を自分で決める。独りでいることは孤独ではなく、自由だ――そう言い切れる日が、少しずつ増えてきた。収入は減ったが、ストレスは減った。
店主は静かに鍋を片付け、カウンターに手を置く。外の路地に落ちる昼の光は柔らかく、店も人も時間も、自分の掌の中でちょうどいい熱さで生きている。
暖簾を外しながら、明日も同じように客が来るだろうかと、ふと考える。その問いに答えは出ない。
それでも鍋は洗われ、店は閉じられる。
スタッフに悩まされていた頃の苛立ちは遠い記憶になったが、静けさの中に残るこの感触だけは、まだ名前がついていなかった。