【1000文字小説】未来から届いた重力波
観測ステーション〈カリオペ〉は、地球—月ラグランジュ点の静寂に浮かんでいた。恒星も惑星もない空間で、ただ重力だけが確かに存在している。人類はそこに、宇宙で最も精密な干渉計を配置した。
真田ユリエは中央制御室でモニターを見つめていた。環状に配置された干渉計リングを二本のレーザーが逆向きに周回している。重力波による時空の歪みは、光路長の差として検出される――説明不要な常識だ。
「また、ノイズか……?」
表示された波形は、基線から浮き上がっているが、既知のどのテンプレートとも一致しなかった。〈カリオペ〉の干渉計リングは単なるレーザー測距装置ではない。周回する二本のレーザーは位相ロックされ、プランク長の一億分の一以下の変位を検出できる。重力波による時空計量の変化はミンコフスキー計量の微小摂動として現れ、そのテンソル成分はリアルタイムで分解・再構成される。
ユリエはストレイン関数ℎ(𝑡)を呼び出し、相関解析を走らせた。連星ブラックホール、連星中性子星、確率的重力波背景――すべて否定された。
「到達時刻が……おかしい」
ピークが観測時刻よりわずかに未来側にある。因果律に反する、あり得ない配置だ。重力波は光速で伝播する。因果円錐の外から届く情報は存在しない――それが一般相対論の帰結だ。
だがユリエは式を書き換えた。時間順序演算子を外し、グリーン関数をレターデッド解からアドバンスト解へと置き換える。
「……解は、存在する」
一般相対論の場の方程式は時間反転対称だ。未来から過去へ向かう解は数学的には常に許される。排除してきたのは物理ではなく、人間の解釈だった。
信号の偏極モードを分解すると、+と×の干渉比が極低周波で規則的に揺れている。自然起源では説明できない秩序だ。波形はモニター上で微細に明滅し、自己参照的に繰り返すパターンを描いている――数字に置き換えると周期0.12秒の微振動で、各ピークの振幅は±0.004%以内に収まる。ノイズではなく、統計的に偶然の一致では説明できない。
エネルギー収支を確認する。放射エネルギーは恒星一つを動かすほどではない。しかし位相情報量は異常に高く、信号自体はほぼエネルギーを伴わずに時間順序情報のみを運んでいる。
――エネルギーではなく、情報だけを送っている。
その瞬間、ユリエは理解した。これは警告でも挨拶でもない。未来の〈カリオペ〉が、自分自身に向けて送った観測ログだ。
「因果律は破れていない……」
未来は過去を変えていない。ただ、過去に“選択肢”を残しているだけだ。モニターの片隅で、微小なズレが観測された。人間の手によるキャリブレーション誤差。誰もが無視してきた、意味を持たないはずのノイズ。だが未来信号はそこにだけ重なっていた。
ユリエは静かに記録を保存する。このズレを修正すれば未来は成立しない。修正しなければ未来は確定する。彼女はまだ報告しない。この選択が宇宙の運命を変えるなどとは思わない。ただ、人間が必ず介在してしまう――その微小なノイズこそが、時空に残された最後の自由度なのだと理解しただけだった。
干渉計は回り続ける。重力波は、まだ静かだ。未来は、観測されるのを待っている。