【1000文字小説】キーボードの上の癒し
私は猫を連れて初出勤した。
就職活動をしていた去年の夏、ミツバソフトを訪れた日のことを今でも覚えている。雑居ビルの三階。少し古びたドアを開けると、内側にもう一枚、低い柵のような扉があった。その向こうで、黒猫が静かに尻尾を揺らしていた。棚の上からは白い猫がこちらを見下ろし、奥のデスクでは茶トラがキーボードの上で眠っていた。
「……猫、いるんですね」
面接官は当たり前のようにうなずいた。
「ええ。うちは猫と一緒に働く会社なので」
スーツ姿で緊張していた私の足元で、猫は大きく伸びをした。その光景に、胸の奥がゆるむ。アパートにはサバトラのメス猫、ハルがいる。留守番ばかりさせる生活に、ずっと小さな罪悪感を抱えていた。なぜ内定が出たのか、私は知らない。ただ、あのとき足元で伸びをしていた猫のことだけは、妙に覚えている。
そして今日、私はハルと一緒に出勤した。電車の中では、仕事のことよりも別の不安が頭を離れなかった。ハルは人懐っこいけれど、他の猫と仲良くできるだろうか。もし威嚇したら。もし追いかけ回したら。会社で気まずくなるのは、人間より猫同士かもしれない。
キャリーバッグを開けると、ハルは少し周囲を見回したあと、静かに床に降りた。近くにいた黒猫と一瞬だけ目が合う。私は息を止めたが、二匹はどちらからともなく視線を外し、それぞれ別の方向へ歩いていった。拍子抜けするほど、あっさりしていた。
安心したのも束の間、ハルは迷いなく私のデスクへ向かい、初日から堂々とキーボードの上に乗った。Fキーのあたりを踏み、くるりと丸くなる。
「そこ、定位置になるよ」
先輩が笑う。誰も注意しない。私はEnterキーが使えないまま、画面を眺めるしかなかった。
この会社では、時間に関係なく猫たちが勝手に行動する。午前中だろうが、作業の途中だろうが、猫は好きな場所で寝る。コピー機の上、窓際、会議室の椅子。ハルはときどき他の猫とすれ違いながら、私の足元と机の下を行き来して、気に入った場所で眠った。特別仲良くもしないが、揉めることもない。その距離感が、この会社らしい気がした。
仕事は少しずつ進んだり、止まったりする。でも、焦る空気はない。猫の寝息が聞こえると、それだけで「今はそういう時間だ」と思えた。ハルが伸びをしてキーボードから降りた。止まりがちだった作業が、そこで一気に進んだ。しばらくすると、また当たり前のようにキーボードに乗ってくる。その繰り返しだった。
帰り道、キャリーバッグの中でハルは眠っていた。就活中、猫に驚いたあの日から、私はもう答えを決めていたのかもしれない。猫が自然体でいられる場所なら、私も働ける。そんな社会人生活が始まった。
キャリーバッグの端で、ハルが小さくしっぽを揺らした。