【1000文字小説】梅雨の「哲也」
梅雨の晴れ間、土気色の空の下、男は築三十年になる古びたアパートの一室にいた。今日はコンビニのシフトが休みだが、特にどこにも行く気になれず、ただゴロゴロとテレビを見ていた。六月の蒸し暑さが、余計に気分を滅入らせた。部屋の片隅の小さな仏壇には、穏やかに微笑む両親の遺影が飾られている。
チャイムが鳴った。男が玄関のドアを開けると、隣の部屋に住む小柄なおばあさんが立っている。最近はいつもぼんやりと虚空を見つめていることが多い。
「ええと、おばあちゃん、こんにちは」
男が声をかけると、おばあさんの目に微かな光が宿った。そして、しわくちゃの手で男の腕を掴み、じっと顔を見つめてきた。
「あんた、いつ帰ってきたんだい」
「え?」
「電話もよこさずに。もう、母さん心配したんだから」
「え? 息子じゃありませんよ。隣の……」
言いかけた男の言葉を遮るように、おばあさんはさらに強く腕を掴んだ。
「誰が息子の顔を忘れるものか。哲也だろう? 大きくなったねぇ、まったく」
哲也。以前聞いたことがある、遠くにいるというその息子に、男は似ているのだろうか。おばあさんの瞳は曇ることなく、真っ直ぐに男を映していた。
「……ただいま、母さん」と男は言ってみた。おばあさんは「おかえり」と嬉しそうに呟き、男を部屋の中へ招き入れた。
薄暗い部屋の中には、古い家具と、所々に飾られた家族写真。写っている息子の哲也は、自分とは似ていない。一流企業に就職したという話もだ。
男は時折、おばあさんの息子のふりをするようになった。おばあさんは息子の訪問を心待ちにしており、「今日は仕事は休みかい?」とか「体調は崩してないかい?」と、本当の母親のように心配してくれた。
男はおばあさんと話す時間は嫌いではなかった。仏壇の遺影に語りかけるだけの日々とは違う、誰かの身を案じ、案じられる温かさがある。
自分の部屋に戻った男は、仏壇の前に座り込んだ。遺影の中の両親はもう何も語らない。彼らに心配されることも、安否を気遣われることもない。言いようのない孤独と虚しさを感じた。
ある日おばあさんの部屋の郵便受けに一通の封筒が入ってた。「哲也様」と書かれたそれは、役所からの「介護保険要介護認定・要支援認定申請書在中」と書かれた書類だった。「申請書?」
男は首を傾げた。申請しなければ送られてこないはずだ。誰かがおばあさんの異変に気づき、動いたのだろうか。本物の哲也か。男は書類を郵便受けに戻しながら、冷や汗をかいた。この偽りの平穏はいつまで続けられるのだろう。(文字数:1039)