【1000文字小説】閾値以下の朝
朝六時、目覚ましは正確に鳴った。
倉井由里は、布団の中でその音を聞きながら、止めるまでに三十秒かかった。遅延は許容範囲内だ、と頭の中で評価する。会社を休む理由にはならない。
由里は都市交通管制会社の解析担当だ。出社時刻は九時。だが実際には、七時台のデータを確認しなければ一日が成立しない。道路網、信号制御、事故予測。すべてが数値で流れ込んでくる。彼女の仕事は、それらを「問題の起きない状態」に保つことだった。
洗面所の鏡に映る顔は、少しだけ眠そうだ。身体が重いのではない。思考が先に会社へ向かい、戻ってこないだけだ。由里は歯を磨きながら、今日の処理負荷を予測する。天候は曇り。イベントなし。理論上は平穏な一日になる。
それでも、行きたくない。
理由は単純ではなかった。上司でも、同僚でも、仕事内容でもない。すべてが「正しく」回っている職場が、由里には息苦しかった。
都市交通モデルは、人間工学委員会が定めた基準に基づいて設計されている。加速度、減速度、信号待ち時間のばらつき。すべては統計的に「不快と感じられない領域」に収まるよう最適化されていた。
その基準値は、事故率と満足度の交点として算出される。誰かが少しだけ不便になる代わりに、全体が安全になる点だ。
正解が常に事前に定義されている環境では、彼女自身の判断が世界に痕跡を残す余地がほとんどなかった。
通勤電車は定刻通りに滑り込む。由里は吊り革を握り、車内の振動を感じる。車両制御の微細な揺れは、設計値通りだ。
加減速は最大〇・九メートル毎秒毎秒に制限され、これは高齢者の平衡反応速度と若年層の許容ストレスを重ね合わせた結果として導かれた数値だった。体感誤差は常に、人間が「揺れとして認識する」閾値以下に抑えられている。
安心できるはずの精度が、今日はなぜか心を落ち着かせない。
職場のフロアに入ると、モニター群が静かに稼働している。夜間シフトが残したログは整然としていた。異常なし。由里は席に着き、端末を起動する。指は自動的に動き、確認作業を進める。
午前十時、予測モデルの一部にわずかなズレを見つけた。
特定交差点での右折待ち時間と、歩行者の立ち止まり頻度の相関が、前週までの分布から外れている。誤差は小さい。規定では「学習ノイズ」として無視してよい範囲だった。
無視しても、今日の運用には影響しない。
だが由里は修正を加えた。
右折車両の待機時間を、基準値より〇・二秒だけ延ばす。全体効率はわずかに低下するが、立ち止まる歩行者の数は減る。
規定では、個別行動の快適性を理由に全体最適を下げることは推奨されていない。
理由はない。ただ、放置できなかった。
修正後の数値は、現実とよく一致した。画面は静かだ。何も起きない未来が、正しく計算されている。
ただし、その「正しさ」は正式なモデル更新として記録されることはない。閾値以下の変更は、監査対象にならないからだ。
由里は背もたれに体を預け、息を吐いた。
仕事は憂鬱だ。それでも、世界が問題なく回ることを、彼女はまだ手放せない。
問題が起きなかった理由が、自分の判断だったとしても。
会社に行きたくない理由は、明日も変わらないだろう。
それでも彼女は、また数値を見続ける。