【1000文字小説】脚注のクリスマス
クリスマスの夜、東京軌道気象センターは静まり返っていた。常駐するのは最低限の当直要員だけだ。外では都市上空を巡る反射型ソーラーパネルが、イルミネーションのように光を散らしている。
佐倉ミユは解析卓に肘をつき、太陽観測衛星〈ひので〉改のリアルタイムデータを睨んでいた。彼女の専門は宇宙天気、特に太陽風と地磁気圏の結合モデルだ。
表示されているのは通常のX線フレアではない。磁気リコネクションに先行するはずの指標が、わずかに位相をずらしている。
Δφ=10⁻⁹ラジアン。
誤差と切り捨てられる値だ。しかしミユには見覚えがあった。量子通信実験が本格化して以降、ごく稀に観測される異常相関。太陽内部のプラズマ振動と、地球圏で発生した量子エンタングルメントの残響が、統計的に重なったときにだけ現れる。
管制AIはすでに結論を出していた。
《ノイズ。警戒レベル維持》
彼女は一度、ログアウトしかけて手を止めた。警戒レベルを上げれば、数百基の衛星が安全モードに入り、物流網と通信帯域に大きな遅延が出る。クリスマスの夜に、それを決断する責任は重い。
だが、太陽風速度予測式の補助項に、ほんのわずかな歪みが見えた。MHD方程式では説明できない非線形項。
もしこれが実在するなら、地磁気圏は想定より深く圧縮される。閾値を越えれば、極域だけでは済まない。
ミユは「補正」を行った。
データを改ざんしたわけではない。AIが自動的に切り捨てる下位ビットを、理論的に意味のある値として再正規化しただけだ。仮説を通すための、最小限の形式操作。
《再計算中》
数秒後、警戒レベルは一段階だけ引き上げられた。全面遮断ではない。だが軌道施設の一部は退避に入り、高感度通信は一時停止される。
結果として、太陽嵐は「ぎりぎり」文明に触れなかった。
後日まとめられた報告書では、判断はAIの確率計算によるものとされ、彼女の名前は脚注にも残らない。
ミユは観測室の窓を見た。ホログラムの雪が降り、誰かが笑っている。
宇宙は危険なほど広大で、人類の理解はまだ浅い。それでも、数式の隙間に残る違和感を拾い上げる者がいる限り、世界は急には壊れない。
クリスマスの夜は、何事もなかったかのように過ぎていった。
ただ一つの小さな判断が、統計の海に埋もれたまま。