【1000文字小説】運転席の高さ
年末の高速道路は、音が少ない。タイヤがアスファルトをなぞる音だけが一定に続き、ラジオはつけないままにしている。私はハンドルを握り、低く垂れた冬空を見上げた。実家までは約百キロ。帰省という言葉が、ようやく現実味を帯びる距離だ。
運転席には私、助手席では妻の深雪が、膝にかけたコートの端を整えながら外を眺めている。防音壁の影が、彼女の頬をゆっくり横切っていく。会話は少ない。だが沈黙に、理由を探す必要はない。
後部座席には、娘の陽菜と息子の蒼。陽菜は窓に額を寄せ、雲の形を変な名前で呼んでいる。蒼は菓子袋を覗き込み、どれを最後に食べるか真剣に悩んでいた。その紙の擦れる音が、なぜか少しうるさく感じる。私は無意識にアクセルを踏み込み、すぐに気づいて緩めた。
サービスエリアの標識が見えると、蒼が「ねえ、もう着く?」と聞く。
「まだ三分の一だよ」
「えー、遠すぎ」
その声に、私はかつて同じ言葉を吐いた自分を思い出す。後部座席で退屈を持て余し、運転席の父の背中を睨んでいた。父はよく片手でハンドルを回していた。肘掛けに肘を乗せたまま、ウィンカーを出したと思った次の瞬間には、もう車線を跨いでいる。出したのか、出すつもりだったのか分からないようなタイミングだ。私はそのたびに、後部座席でシートベルトを握り直していた。あの運転は、今の自分にはまだ少し怖い。
実家では父と母が待っている。電話越しの声は年々ゆっくりになったが、二人とも健在だ。兄夫婦も帰ってくるだろう。誰がどこに座り、誰が最初に箸を取るかまで分かっている。それでも、その配置が崩れていないことが、年末の救いだった。
山道に入ると、路肩に残った雪が午後の光を受けて白く浮かび上がる。深雪が「今年も早かったね」と言う。私は「そうだね」と答えながら、ブレーキに足をかけるタイミングを一拍遅らせた。
そのとき、後ろから陽菜が言った。
「ねえパパ、じいじの運転、ちょっと怖いよね」
一瞬、笑いそうになり、喉が詰まる。私はミラー越しに子供たちを見る。蒼は何も分かっていない顔で頷いていた。
この百キロは、ただの移動じゃない。運転席の高さが、少しずつ変わっていく距離だ。私はハンドルを握り直し、父より少し慎重に、年末の家へと車を進めた。