風のない、穏やかな秋の日曜の午後だった。真理子は手すりに手をかけ、三十階からの眺望を楽しんだ。賑わう街の自動車の列。郊外の田圃。遠くには色づき始めた山が見える……。
敬一が気に入ったのは高い天井や大型のクローゼットや近くにあるビデオレンタル店やコンビニエンスストアーではなく、市内が一望出来る三十階からのこの眺めだった。それまで住んでいた賃貸マンションの、眼前の零時まで消えないパチンコ屋の電飾看板にはうんざりとしていたので、この景色を見た敬一はひどく感激した面持ちで、勢い込んで二十年のローンで購入を決めたのだった。
だが、この景色を二人で見ることはもうなかった。真理子がそう望んでも、それは叶わぬ夢だった。今やこの景色は真理子だけのものになってしまった。いや、真理子と、一匹の牡猫のものに。
もう二度と会わないならば、せめてこのマンションから飛び降りてくれればよかったのに。自分の好きなこの景色を眺めながら。そんなことを真理子は思う。だが、敬一は今頃早紀と一緒に新しい景色を眺めているのだろう。慎ましそうな顔とは裏腹に、我が儘で、不身持ちで、平気で友達の夫を奪い取るような女と。なぜ敬一にはその本性がわからないのか。正体がわかれば、敬一は自分の元へ戻ってきてくれるかもしれない……。
景色を見ている真理子の頬にふとあたったものがあった。蜘蛛の糸だった。真理子は首を上げた。青空から透き通った細い糸ががふわりふわりと落ちてくる。
これから寒くなるこの季節、草の葉に登った蜘蛛の子が糸を出し、風に乗って空を移動する。蜘蛛の子が雲の子になって空を駆けるのだった。真理子は掌にそっと受け止める。だが、それはいつのまにか消え去ってしまう。彼女のはかない願いのように。
これから、冬が来る。寒くてつらくてやるせない、一人と一匹の冬。ティムはどこで丸くなる。真理子の部屋に炬燵はなかった。
(1998/10/23/勝ち抜き小説合戦応募 文字数:995)
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