「うん、もう帰んなきゃ」
「もう少し遊んでいようよ」
「でも、あんまり帰りが遅いと、おじいちゃん、心配するし…」
「そう」少女はなおも不満そうな顔をしていたが、それ以上英明を引き止めることはしなかった。英明は「じゃ、さよなら」と言って自転車に跨って走り出したが、少女は人形のように無言でただじっと立ち尽くして少年を見送った。
英明は周りの風景が見知らぬものになっているのに気がついた。英明は訝しく思った。どうやら迷子になってしまったらしい。が、家に向かって走っていたのに、どうして、いつのまに… 何かに騙されて迷路に紛れ込んだ気がした。
英明の家は父も母も仕事で帰りが遅い。だが家には祖父がいる。祖母は三年前に亡くなった。その頃から祖父は少しずつ言動がおかしくなり始めた。ぼけ始めたのだった。英明を父と間違えることもあった。その祖父が出かける前の英明に言った。
「今日みてな日は暗くなっとけってこれねくなっからな、暗くなるめえにけえってこ」
「え、なして?」
「いいがら、今日は暗くなるめえにけえってこ」その時はまた祖父がおかしなこと言っているとだけ思ったが、案外とそれは正しいことだったのかもしれない…
「遊びましょう」
目の前に少女がいた。いつのまに元の場所に戻ってきてしまったのだろう、英明がそう思ったとき、英明は少女の名前さえ知らなかったことに気づき怖くなってきた。
「ねえ、もっと遊びましょうよ。どうせ帰れないんでしょう?」
「か、帰れるさ」
「へぇー、そう?」
「当たりめえだろ」
「ばかねえ、名前を呼んでくれる人がいないとあなたは帰れないのよ」
「嘘つくな」英明は自転車を漕いで急いで少女から離れた。その時どこからか祖父の声が聞こえてきた。「お、おじいちゃんだ」英明はその声にすがりつきたくなる。暗くなっても帰らない自分を心配して探しに来てくれたのか、助かった、と英明は思った。
「ふーん、でも、あなたを呼んでんじゃないわね」そう言いながら少女が現れた。
その通りだった。英明の祖父は英明の父の名を呼んでいたのだった。
暗くて顔がよく見えないのに英明には少女が冷たく微笑んでいるのがわかった。
(1998/09/04/勝ち抜き小説合戦応募 文字数:1000)
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