【1000文字小説】知っているのに知らない彼女
車、車、車、車、車…。前にも後ろにも、ノロノロとしか動かない車列。渋滞だ。アスファルトは乾いて暖かく、色づいた街路樹の葉がカサカサと音を立てる。助手席でスマホに夢中になっていた妻がふと顔を上げた。
「ねえ、渋滞の情報全然出てないわよ」
無邪気な声に彼は苛立ちを抑えながら短く答える。
「本当?」
おかしい。こんなにひどい渋滞なのに、情報がないなんてことはないはずだ。妻の検索の仕方が悪いんだろう。事故か、工事か、何かイベントでもあるのか。原因はわからなくても、不満を呟いている人くらいはいるだろう。前方の車がわずかに進み出すたびに、彼はブレーキとアクセルを交互に軽く踏み込む。助手席から、また声がした。
「ねえ、この車、飛べないかしら」
彼は視線だけを向ける。妻はスマホを膝に置き、こちらを見ていた。彼女の口元には微笑が浮かんでいる。だが、その微笑は彼の知る妻のそれとはどこか違うような気がした。
「多分僕が重量オーバーで無理だよ」と彼は答える。彼の体重は100キロを超えているのだ。彼は前方を注意しながら、もう一度妻の顔を見る。妻の瞳はいつもよりも何となくだが暗い色に見えた。
「どうかした?」と妻が首をかしげる。
その仕草は、彼の知る妻とまったく同じなのに、やはりどこかが違う気がする。彼女の顔の輪郭が、ほんの少しだけシャープになっている気がする。声のトーンが、わずかに高くなっている気もする。
「なあ、君は」
言いかけた言葉は、喉の奥に引っかかる。彼は、確かめたかったが、何を確かめればいいのかわからない。だが、違和感は拭えない。彼は視線を助手席のドアポケットに置かれた、見覚えのないキーホルダーへと移した。それは彼の妻が持っているものではない。
その時、前の車が急に加速し始めた。周りの車も一斉に動き出す。すべての信号が一斉に青に変わったのだろうか。これまでの渋滞がウソのようだ。彼もまたアクセルを踏み込む。
再び動き出した車の中で、彼は思う。隣に座るこの女は、はたして妻なのだろうか。そして、あの渋滞は、いったい何だったのだろうか。まるで何か見えない力が働いて、彼らを一時的に足止めしていたかのようだ。そして渋滞の間に、誰かが彼の妻を、見知らぬ妻と交換した…。いや、そんな超常的な話ではないはずだ。これまで見過ごしてきた、小さな変化の積み重ねが違和感として表れているだけだ。無理にそう考えて彼はアクセルを踏み込んだ。(文字数:1000)