【1000文字小説】「明日、雨が降るそうよ」

 「明日、雨が降るそうよ」

リビングから母の声がした。窓の外は明るい青空で、雲ひとつない。明日、雨が降るなんて、今の空からは想像もできなかった。

「ほんと? 降らないといいな」

そう返すと、母は振り返り、私を見て微笑んだ。「たまには雨もいいものよ。静かで、心が落ち着くから」母は雨の音が好きだと言っていた。

最近は毎日「このままでいいの?」と刺すような視線を向けてくる母だったけれど、今日のこの瞬間だけは、優しい「母」だった。母もまた、娘である私のことを心から心配しているのだ。


玄関に向かい、スニーカーの紐を結び、家のドアを開け、外の爽やかな空気を肺いっぱいに吸い込む。昼下がりの住宅街は静まり返っている。隣の家の庭では、猫がのんびりと日向ぼっこをしていた。私は人気のない裏通りを選んで歩き出す。

散歩コースはいつも同じ。小さな公園の脇を通り、古い神社へと続く坂道を登る。神社の境内には誰もいない。私はベンチに腰掛け、空を見上げた。


ぼんやりと空を眺めていると、脳裏に過去の光景が蘇ってきた。

あれは初めての、そして最後のアルバイト。コーヒーショップのレジ打ちだった。新しい季節限定フラペチーノの注文が殺到して、頭の中が真っ白になった。お客様からのクレームが重なり、店長が飛んできた。私を責める店長の冷たい視線と、列に並んだ人々の苛立った表情が、今でも鮮明に思い出せる。結局、耐えられなくなって、連絡も入れずに辞めてしまった。あの時の店長の「君には社会人としての常識がない」という言葉が、ずっと私を縛り付けている。

あの時以来、誰かの視線が怖くなった。また失敗して、責められるのが怖い。母は働くことを急かすけれど、私にはその一歩が踏み出せない。


ふと、父の顔が浮かんだ。父は口下手だけど、私が好きだと言った洋菓子の店のケーキを、時々買って来てくれる。この前も雨の日に一緒に傘に入って散歩した。父は、私がすぐに社会に適応できないことを、静かに許容してくれているのだろうか。あの時使った傘は、かなり大きい。


夕暮れが近づき、空がオレンジ色に染まり始めた。そろそろ帰ろうか。父はもう帰宅して、母は夕食の準備を始めているかもしれない。


重い足取りで家路を急ぐ。明日もまた、同じような一日が始まるのだろう。だけど空はまた違った顔を見せるはず。明日が雨なら、父の傘を使ってみようか。そんな小さな決意でも、私の心を少しだけ軽くしてくれた。(了)




〈1000文字小説・目次〉


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