【1000文字小説】陽炎と十万円
玄関のドアが閉まる音で、拓の一日が始まる。父が仕事に出かけた合図だ。拓は自室から出て、まずは昨日着た父と自分の服を洗濯機に入れ、スイッチを押す。窓の外は、すでに強い日差しが照りつけている。アスファルトから立ち上る陽炎が、梅雨明けを告げるかのように揺らめいていた。洗濯物もすぐ乾くだろう。
拓、二十三歳。新卒で入った会社は、たった一日出社しただけで退社した。朝礼の視線、昼休みの談笑、指示を出す上司の声。それらすべてが刺すように痛く、怖くて仕方がなかったのだ。あれから半年、拓は家にいる。父から渡された十万円で、拓はこの家の生活を回していた。
日中は、夕食の買い物、洗濯物の取り込みと畳み、そして五男の準備。五男は、近所の保護猫が産んだ子猫の一匹で、拓が責任を持って世話をしている。買い物に出かけると、入道雲がもくもくと空高くそびえ立ち、じりじりと肌を焼くような太陽の下、拓は少し早足になった。店先には風鈴の涼しげな音が響き、夏の盛りを感じさせた。
余った時間は自分のために使う。家の近所をマスク姿で散歩したり、少し遠くの大型書店まで足を延ばして本を立ち読みしたり。誰とも深く関わらず、ただ通り過ぎる人々を眺めている分には、さほど恐怖を感じない。あるいは、自室で黙々とゲームをすることもあった。
夕方五時になると、夕食の準備を始める。今日は冷やし中華と枝豆。手際よく包丁を動かし、鍋を見つめる。料理をしている時間は無心になれる貴重なひとときだった。
父が帰宅し、「ただいま」と言う。拓は「おかえり」と返す。二人で食卓を囲むが、会話は多くない。食事が終わり、片付けを終えると、拓はまた自室に戻る。
電気を消した部屋で、拓はぼんやりと窓の外の月を見上げた。夜になっても、開け放した窓から入る風は生ぬるく、夏の夜の匂いがした。
トイレに行くと、父がリビングのソファでテレビをつけっぱなしで寝ているのが見えた。その疲れた背中を見て、拓は心の中で呟いた。「父さんも、頑張ってるんだよな」
明日もまた、同じ一日が始まる。この淡々とした日常は、いつまで続くのだろう。不安がないわけではない。それでも、今はまだ、この静かな時間が彼にとって唯一の安全な場所だった。そして、この場所を守ることが、今の自分にできる唯一の「仕事」なのかもしれない。拓は、窓を少しだけ開けた。蒸し暑い空気と一緒に、遠くの祭りの太鼓の音が微かに聞こえてきた。(了)