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2013/09/23

【1000文字小説】月に手が届く



塾帰りの明が駐輪場に自転車を止めマンションの棟内へと入ると、エレベーターのドアが閉まる寸前だった。中にいた人がボタンを押したのか、閉まりかけたドアが開いた。明は「すいません」と言いながら慌てて乗り込んだ。

背の高い四十歳前後の見知らぬ女性がいた。細面で聡明そうな女性だった。女性は「二十階よね」と言った。奇麗なソプラノだった。

「え?」

「二十階よね」

よく通る声で繰り返した。二十階のボタンだけが点灯している。

「は、はい」

明は返事をしながら、怪訝に思った。自分の事を知っているのだろうか? 今まで見かけた事はないが、同じ二十階の住人で、それで知っていたのかな。

二十階に着くと「どうぞ」と女性に促されて明が先に降り、女性が続いた。

明はちらっと後ろを振り返った。女性はエレベーターの対面にある階段の方へ向かって行き、明の視界から姿を消した。

これから屋上へ行くのだろうか?

このマンションは二十階が最上階で、上には四方をフェンスで囲まれた屋上があるだけだった。

明は引き返すと、はたして階段を上っている女性の姿が目に入った。

いつもは鍵がかけてあり開かないはずのドアを難なく開け、女性は屋上へと出ていった。

鍵を持っていたのだろうか。これから天体観測でもするのだろうか。

明も階段を上がり、ドアを開けようか迷っていると、不意にドアが開いたので驚いた。出てきたのは先程の女性ではなく、明と同年齢ぐらいの女の子だった。明は胸がどきんとした。女性に似ている気がしないでもなかった。

明は後ろめたい事が露見してその言い訳でもするようかのように「あ、あの」と声を出したが、女の子は明に見向きもせず脇を通りすぎ、階段を降りていった。どういった靴を履いているのか知らないが、やけに響く靴音が聞こえた。エレベーターを使わないで降りているらしく、その音は随分長い間聞こえた。

女の子があらかじめ屋上にいたから、鍵が開いていたのだろうが、では女の子はどうやって屋上に入り込んだのだろう。

明は屋上に出た。思ったほど暗くはなかった。剥き出しのコンクリートが月からの光を受けてぼんやりと浮かび上がっていた。

誰もいなかった。飛び降りたのだろうか。だが明は地上を伺う勇気はなかった。

明は地上を覗く代わりに空を見上げた。くっきりと浮かんだ月が、手が届くほど近くに見えた。月を背景に自転車が飛ぶETのワンシーンを思い浮かべたが、勿論空を飛ぶ女性の姿などはない。(了)


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