【1000文字小説】ハチとお散歩
曇天の空の下、結はアスファルトの歩道を歩いていた。まだ冷たい空気が肌を刺すが、日差しの強さが冬とは違うことを教えてくれる。グレーのダウンジャケットに身を包んだ結の足元には、茶色い毛並みの柴犬がついてくる。ピンと立った耳、くるりと巻かれた尻尾。犬は小刻みに歩幅を合わせながら、地面に鼻先をこすりつけていた。
「お小遣い、上げてくれるかな。高校生になるんだからね」
結は愛犬に話しかける。ハチと呼ばれた柴犬は、ちらりと結を見上げたかと思いきや、次の瞬間には道の脇に生えた枯れ草の匂いを嗅ぐのに夢中になり、まるで結の言葉など聞こえていないかのようだ。
「バイトでもするか。でも、怖いよなぁ」
結の声は、風に溶け込むように小さかった。ハチは電信柱の匂いを嗅ぎ、足を上げて用を足す。結は水を入れたペットボトルを準備し、淡々と後始末をする。ハチは満足したのか再び歩き始める。
公園に入ると、地面は一部が露出して土が濡れていた。ブランコは錆びつきシーソーは傾いたまま動かない。雪が解けきっていない芝生には、小さな足跡がいくつもついていた。ハチは芝生の上を駆けていくが、結が「ハチ、あまり遠くに行っちゃダメだよ」と声をかけても、自分の興味のある匂いを追いかけていく。
バイトの求人サイトで見た、明るく笑う高校生の写真。それは自分とは違う眩しい世界に見えた。面接でうまく話せるだろうか。初めての仕事で失敗しないだろうか。アットホームって何? 色んなことを考えていると足がすくむ。
「うちが大金持ちだったらなあ。お小遣いは百万円ぐらい。厚底スニーカーも、流行りの小さめのショルダーバッグも、限定色のリップも、コスメセットも、あと、あれ、みんなが持ってるハローキティのご当地キーホルダーも、この前SNSで見た、すごく可愛いスイーツも食べてみたいし、友達と遊びに行くための交通費も、カラオケ代も、映画代も、服も、服も、服も…。百万円じゃ足りないな」
冷たいベンチに腰を下ろすと、結は深くため息をついた。吐き出された白い息が、一瞬で空気に溶けていく。
「ハチ、お前もお金持ちの家の子だったらよかったよね」
だが、ハチは結の言葉に耳を傾けることなく、芝生の上をぐるぐると回り、残った雪に前足を突っ込んでじゃれついていた。その無邪気な姿に、結は少しだけ笑みをこぼし、ふっと力が抜けるのを感じた。ハチは地面の匂いを嗅ぐのをやめ、結にぴたりと寄り添った。(文字数:1000)