【1000文字小説】九階と別の階

 夏未はマンションの九階に住んでいる。エレベーターはいつも当たり前のように、その階まで彼女を運ぶ。特別な事ではない。当たり前。彼女の毎日は、いつも当たり前の事ばかりだ。朝起きて、ご飯を食べて、学校へ行き、帰って、宿題をして、ゲームをして、テレビを見て、寝る。


でも、マンションのエレベーターに誰も乗っていないとき、彼女の毎日は特別な時間になる。今日も習い事から帰ってきた彼女の前に、エレベーターの扉が開いた。中には誰もいない。彼女はそっと乗り込み、九階のボタンを押す。本当の世界は、きっともっとわくわくするはずだ。少し躊躇してから、七階のボタンを押した。


エレベーターが動き出す。一階、二階、三階。数字がぽん、ぽん、と変わっていく。彼女は息をひそめて、七階に止まるのを待つ。七階のランプが点滅し、扉が開く。そこには誰もいない。夏未は、少しだけがっかりした。今日も、いつもの七階だ。エレベーターは九階に着いた。


次の日、今度は五階のボタンを押してみる。五階の扉が開くと、そこには、隣のクラスの男の子が立っていた。

「よっ」

男の子は夏未に気づいて、手を上げた。

「恐竜、好きなのか」

男の子がそう尋ねてきた。夏未がいつも恐竜の模様のキーホルダーをつけているからだ。

「…うん」

夏未は小さな声で答えた。男の子はにっこり笑った。

「俺も好き。いつか、本物の恐竜、見てみたいな」

自分だけの秘密だと思っていた扉の鍵を、彼がそっと回した気がした。だがここも、いつもの五階だ。


夏未がエレベーターで二つの階を押すようになったのは、友達から聞いた話がきっかけだ。

「エレベーターに一人で乗って、行き先の階ともう一つ別の階を押すと、異世界に繋がる」

胸がわくわくして、心臓がいつもより速く動いているような気がした。もし別世界があるのなら、大好きな恐竜が歩き回っている世界だといいな、と思っていた。九階のボタンを押したあとに、もう一つの階のボタンを押す。それは、異世界への扉を開ける為の、特別な呪文のようなものだ。


今日も、夏未は一人でエレベーターに乗った。九階のボタンを押してから、今度は四階を押した。エレベーターが四階に着くと、扉が開く。誰もいない。そこに広がっていたのは、いつもの、当たり前の、マンションの廊下だった。だが夏未は空いた扉の向こうに、五階の彼の笑顔が見えるような気がした。静かに、扉が閉まる。エレベーターはまた九階へと向かった。(文字数:1000)



<1000文字小説目次>



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