【1000文字小説】止まない雨
梅雨の気配は、朝目覚めた瞬間のけだるい空気で知る。頭が、鉛のように少し重い。カーテンの向こうは灰色の絵の具を溶かしたような空。アスファルトを叩く音は、いつもより少しだけ鈍く響く。今日は一日雨らしい。
窓の外を眺めながら、美佐子は冷えたコーヒーを一口飲んだ。口の中に広がる苦味。四十五歳の誕生日が近いが、考えないようにしている。特別な期待もなく、かといって絶望もない。ただ淡々と一日が始まる。
着替えて、簡単な化粧を済ませる。鏡に映る自分は、疲労が薄く貼り付いたような顔をしている。シミも、小じわも、隠しきれなくなってきた。ファンデーションを重ねる指先には、昔のような高揚感はない。ただの習慣。ただの義務。
傘をさしてマンションを出る。アスファルトに水玉模様が広がっては消えていく。水気を吸い込んだ紫陽花が、軒下で重たげに首を垂れている。そのくすんだ色合いは、まるで美佐子の心の色を映したようだった。くすんだ青、濁った紫。かつては、この花の色を美しいと思った。けれど今は、何だか自分に似ているような気がして、目を逸らしたくなる。美しさが失われゆく過程を、静かに見せつけられているようで。若い頃に憧れた、きらびやかな未来はどこにもない。ただ、毎日同じ電車に乗って、同じオフィスに通うだけ。
大きな傘の群れが、水たまりを避けながら歩いていく。その一つに加わり、美佐子も歩を進めた。駅のホームは、雨で濡れた人々の熱気と湿気がこもっている。満員電車に乗り込む。若い女性社員たちの弾むような声が耳につく。彼女たちの会話は、きらきらと光る宝石のよう。ブランドのバッグ、SNSで話題のスイーツ、週末の予定。美佐子もかつては、そんな会話の中心にいた。今はもう、蚊帳の外だ。話しかけられることも、話しかけることもない。ただ、車窓の外を流れる雨粒を、ぼんやりと見つめている。雨は、止まない。永遠にこのまま、降り続くのではないかと思うほどに。
雨脚は少し強くなっているようだった。どこにも行き場のない雨粒が、ガラスに何度も叩きつけられている。まるでやり場のない感情を、必死にぶつけているかのように。美佐子は小さく息を吐いた。雨の音が、胸の奥深くまで染み渡っていく。この雨は、いつになったら止むのだろう。そして、この、満たされない気持ちも。美佐子はもう一度窓の外を見た。一瞬だけ雨脚が弱まったが、それでも灰色の空はどこまでも続いていた。(文字数:1000)